TITLE : 自選恐怖小説集 さよならをもう一度 本作品の全部または一部を無断で複製、転載、配信、送信したり、 ホームページ上に転載することを禁止します。また、本作品の内容 を無断で改変、改ざん等を行うことも禁止します。 本作品購入時にご承諾いただいた規約により、有償・無償にかかわ らず本作品を第三者に譲渡することはできません。 目 次 旧 友 いなかった男の遺産 駐車場から愛をこめて 怪 物 善の研究 さよならをもう一度 旧 友 1  抱き寄せられそうになって、朋《とも》子《こ》は、つい反射的に相手の胸に手を当て、押し戻していた。 「どうしたんだい?」  と、和《わ》田《だ》が眉《まゆ》をひそめる 。「いやなの?」 「そうじゃない。そうじゃないけど……」  朋子は、ためらいがちに言った。 「──何だよ?」  朋子は、不安な思いで、周囲を見回した。  いつも、和田がデートの後、こうして家まで送ってくれるのは当たり前のことだし、もう一年近くも付き合っているのだから、家の前で別れるとき、キスぐらいしたっていいじゃないかと和田が考えても、それを責めることはできなかった。 「ねえ──今度、ゆっくり……。どこか、落ちつける所でね」  と、朋子は、笑顔を作って言った。  和田は、ため息をついた。 「そんなにご両親に嫌われてるのかな」 「そうじゃない。そうじゃないのよ」  朋子は急いで言った。「ただ──こういうことには親って口やかましいの。分るでしょ?」  我ながら、言いわけめいて聞こえる。  しかし、和田の方は惚《ほ》れた弱味だ。ちょっと笑って、 「分ったよ。じゃ、そのときまで、おあずけってことにしよう」  と言った。 「ごめんね」  朋子はホッとして言った。「じゃあ、また──」 「うん。電話するよ。でも、君って──」 「何?」 「天然記念物みたいな人だなあ」 「まあ」  朋子は、ちょっと和田をにらんで、「じゃ大事に保護してくれなくちゃ」  と言ってやった。  朋子は、和田の姿が、角を曲がって見えなくなるまで、自宅の門の前に立って見送っていた。  もちろん夜だ。といっても、まだそう遅いわけではなかった。  朋子のように、もう二十四歳にもなったOLが、恋人と会って帰って来るには、充分に早い。十時だった。  確かにこの辺は、寂しい場所で、それだけに、住むには静かな場所である。  朋子が子供のころには、この付近、ほとんどが雑木林で、家らしきものは、朋子の家しかない、という状態だった。  今はもう、そんなことはない。いくらも家が建っているし、土地の値段も、朋子の父が買ったころの十倍にも上がっている。  しかし、やはり夜になると寂しく、暗いことには変りがなかった。  一軒ずつの家が割合に広く、庭もあって、緑が多い。それだけに、夜にはひっそりと静まり返ってしまう。  家々の明かりも、木立ちや生垣の奥に覗《のぞ》くだけで、道を明るく照らしてはくれないのである。  和田の姿が見えなくなると、朋子は、ホッとした。  女性の方がホッとするというのも妙だが。  しかし、それだけの理由が、朋子にはあったのだ。  朋子は、気配を感じた。──何かがいる。  自分一人ではない。  音も、何も聞こえなかったが、朋子は、自分をじっと見つめる視線を感じた。どこからか、見られている。  そして……。低い低い、すすり泣くような声が──いや音が、聞こえて来る。  朋子は、ジリジリと後ずさって、門の中へと入って行った。  後ろを向けば、何かが闇《やみ》の中から飛び出して来て、自分を地面に叩《たた》き伏せるかもしれない……。朋子はそう思って震えた。  家の玄関に行きつくまでに、何分かかっただろう?  いや、ほんの一、二分に過ぎなかっただろうが、朋子には十分にも感じられたのだ。  チャイムを鳴らす。──母の足音が聞こえると、朋子は、やっと緊張がゆるんだ。 「──朋子なの?」  と、ドア越しに声がする。 「そうよ」  朋子は答えた。  チェーンを外す音。──何といっても無用心だから、チェーンは必ずかけておかなくてはならない。  ドアが開いた。 「お帰り」  と、母が笑顔で、「和田さんは?」 「うん。──そこで別れたの」  朋子は中へ入って、靴を脱いだ。 「まあ。上がっていただけば良かったのに」  母の邦《くに》子《こ》は、のんびりした口調で言った。  チェーンと鍵《かぎ》をかけて、朋子の後から上がって来る。このところ大分太ったので、玄関から上がるにも、よっこらしょ、という感じである。 「お父さんは?」  と、朋子が訊《き》いた。 「出張。一週間、アメリカですって」 「また、急ね」 「いつものことだから」  と、邦子は笑った。「──ご飯は?」 「済ませたわ。お風《ふ》呂《ろ》に入ろうかな」 「じゃ、先にお入り」 「うん」  リビングルームに入ると、TVが点《つ》いていた。邦子は、大体いつもTVを見ている。 「あら、また新しい番組?」  朋子は呆《あき》れたように言った 。「よくこんがらからないわね」 「ちゃんと真面目《まじめ》に見てりゃ分るわよ」  真面目に、という言葉がおかしくて、朋子は笑ってしまった。 「──朋子」  と、邦子が言った。 「うん?」 「和田さんとは、うまく行ってるの?」 「行ってるわよ。どうして?」 「いえ──だって、一度もうちへ連れて来ないしさ。ケンカでもしたのかと思って」 「そんなことないわ。ただ、あの人、忙しいから」 「夜まで?」 「朝が早いから、あんまり遅くなると気の毒なのよ」 「そう。それならいいけど……」  邦子は、TVから目を離さない。「お父さんも気にしてたわよ」 「その内、きちんと話してもらうわ」  朋子は、スーツの上《うわ》衣《ぎ》を脱いで 、「じゃ、お風呂に入って来る」  ──まさか、母に言えはしない。  和田さんが殺されるといけないから、連れて来ないのよ、とは……。  ──湯舟に張ったお湯に、ゆったりと身を浸すと、朋子は、大きく息をついた。  子供のころから、朋子はお風呂の好きな子だった。  赤ん坊のとき、お湯に入れると眠っちゃったものよ、と朋子はよく母から聞かされたものである。  もちろん、そのころはここに住んでいなかった。もっと小さなアパートにいたのだ。  ここの土地を買って、家を建てたのは、朋子が八つのときで、前の狭苦しいアパートから引っ越して来て、朋子は、この家と敷地の途方もない広さ(と子供には感じられたのだった)に、目を丸くしたものだ。  親子三人の住まいとしては、今でも広すぎるくらいだが、子供のころの朋子には、正に、家の中で充分に駆け回ることができる、「遊び場」だったのである。  もう──あれから十六年たった。  当初の、買い物や通学の不便さも、二、三年すると大分改善されて来た。  朋子は、小学校まで毎日、歩いて三十分もかかっていたが、それが苦になる年齢でもなかったのである。  そう……。  あれに出会ったのは十歳のときだった。  あのときには、思ってもみなかったのだ。──こんなことになろうとは。十年以上もたって、こんな風に、思い起こすことになろうとは……。 2  雨だった。  冬で、雪が降ってもおかしくない寒い一日が、やっと終ったところ。──朋子は、凍える指先に息を吐きかけながら、歩いていた。  息を吐きかけるといっても、傘を持って歩いているのだから、そう自由にはならない。  こんな日には、学校の近くに住んでいれば良かったのに、と思う。  三十分の道が、倍にも三倍にも長く感じられる。ともかくこの辺りは、まだ道が舗装されていないのである。  雨になると、泥だらけで、よほど気を付けて歩かないと、ぬかるみに足を取られそうになる。  転んだりしたら、それこそ悲惨である。充分に用心しながら、朋子は歩いた。  ランドセルはもうびしょ濡《ぬ》れだろう。そこまで気にしてはいられなかった。  十歳にしては小柄な朋子には、重いランドセル、足を取られそうになるゴム長靴、というスタイルは、なかなか厄介なものだった。 「雪ならいいのに……」  と、朋子は呟《つぶや》いた。  そう。雪なら、それなりに面白いし、歩くのもこれほど苦にならない。  ちょっとぐらい転んだって、大丈夫だし……。  でも、空に向かって文句を言ってみても始まらないのだが……。  あと、五、六分、というところまで来て、朋子は足を止めた。  何か──妙な声が聞こえたような気がしたのである。  クン、クン……。  細い、甲高い声。──何かの鳴き声かしら?  朋子は足を止めて、周囲を見回した。  クン、クン。──クン、クン。 「──あれだ」  と、朋子は言った。  雑木林の、茂みの中に、箱が覗《のぞ》いていた。靴の箱か何かだろう。固いボール紙の箱に、紐《ひも》がかけてある。  近寄ってみると、その蓋《ふた》が、カタカタと動いた。中で何かが動いている。  キャンキャン。  犬の鳴き声だ。──捨てて行ったんだ。  ひどいことをする!  朋子は、思わず、傘から手を離しそうになりながら、その紐を、引っ張ってみた。  スルスルと紐がとけて、ポン、と蓋が開いた。子犬が、茶色い塊みたいに、そこに座っていた。大きな目が、朋子を見上げている。 「──可愛《かわい》い!」  朋子は、寒さも忘れて、その子犬の頭を撫《な》でてやった。  ワンワン!  子犬は、元気な声を上げた。尻尾《しつぽ》を、ちぎれそうな勢いで振って、前肢を箱のへりにかけ、必死で朋子の方へのび上がって来る。 「お腹《なか》空《す》いてるの?──そうだ」  もちろん、小学校は給食だから、お弁当は持っていかないのだが、今日はたまたま、特別だった。  給食を作る人がお休みの日で、と先生は言っていた。ともかく、たまのお弁当というので、みんなお昼は大はしゃぎだったのだ。  母親の方も、いつも作っていないせいか、要領が分らないので、やたら沢山持たせるか逆に少なくて足りないか、のどちらかだった。  朋子は、「余った」方のグループで、お弁当箱に、いくつか、おかずが残っていたのである。 「待っててね」  できるだけ雨に濡《ぬ》れないように、木の枝の下へ入って、朋子は、ランドセルをおろし、中からお弁当箱を取り出した。  子犬は、もう匂《にお》いをかぎつけたのか、ワンワン、キャンキャン、とうるさいこと。 「──こら! ちょっと待って!」  朋子は笑いながら、お弁当の中身を、その箱の中にあけてやった。  子犬は、猛烈な勢いで食べ始めた。……朋子は、じっとそれを眺めていた。でも……。  朋子の目に、哀《かな》しげな色が浮かんだ。   「──まあ、よく食べたわね」  母の邦子が、空っぽの弁当箱を見て、言った。 「うん」  雨で濡れた服を着替えて、朋子は台所へ入って来た。 「おいしかった?」 「おいしかったよ」  と、朋子は言って、「友だちにも少しあげたの」 「そう。多すぎたかな、って思ってたの。お父さんのと同じぐらい入れたんだものね」  邦子は、弁当箱を洗い始めた。 「──お母さん」  と、朋子は言った。「犬、飼っちゃいけない?」 「え?」  流している水の音で、邦子には聞こえなかったらしい。水道を止めて、 「何か言った?」  と、朋子の方を振り向く。 「ううん」  朋子は首を振った。「部屋、行ってるからね」 「──宿題、やっといてね」  と、邦子の声が追いかけて来る。  朋子は、二階に上がって、自分の部屋に入ると、明かりを消したまま薄暗い中で、ベッドに引っくり返った。  ──可哀《かわい》そうだったな。  雨に濡《ぬ》れながら、懸命に朋子を追いかけて来た、あの子犬……。  だめ。──来ちゃだめ。  何度手を振っても、そんなの、子犬に分るわけがない。  却《かえ》って、呼んでくれたのかと思うのか、尻尾《しつぽ》を振って、じゃれつこうとするのだった。  本当なら──こんな寂しい所だし、犬を飼った方がいいだろう。でも、だめなのだ。  邦子が極端な犬嫌いだった。それだけじゃなくて、犬や猫の毛で、アレルギーがあるらしかった。  子供の朋子には、むずかしいことはよく分らなかったが、ともかく、動物を飼っちゃいけないんだということは、父親から、よく言い含められていたのである。  あの子犬──どうしたかしら?  とうとう諦《あきら》めたのか、木立ちの下に、じっと座って、朋子を見送っていたあの子犬の哀《かな》しげな目が、朋子には忘れられなかった。  朋子の目に、ふと涙が浮かんだ。──もう考えちゃいけない。  考えないようにしよう。そう思っても、だめなのだ。  朋子の目に、次々に涙が溢《あふ》れ出て来た……。  ──その夜、雨は雪に変った。  ベッドの中で、朋子は、あの子犬がどうしているか、考えていた。  眠りに入るとき、朋子は、犬の、クンクンという声を、聞いたような気がした……。  次の朝、雪は二十センチほど積っていた。  時間がかかるから、と早く出た朋子は、途中、あの子犬が捨ててあった辺りで、足を止めた。  茂みにかかった雪を、手袋した手で払ってみると、あの箱が出て来た。中は空っぽで、雪で半分ほども埋っている。  ──どこへ行ったんだろう?  もしかしたら、この雪の下で、冷たくなっているのかも……。  朋子は、痛む胸を、じっと押えながら歩き出した。  もちろん、朋子のような子供には、どうすることもできないのだ。それは分っていたけれど、それで自分を納得させるには、朋子は幼かった。  ──朋子は、ふと足をとめた。  真っ白な雪の上は、通る人もいないので、きれいなままなのだが、そこに──小さな足跡が残っていた。  ──これ、きっとあの子犬のだわ!  朋子は胸が躍った。──生きてる! あの子犬、生きてるんだ!  どう見ても、今朝、雪が止《や》んだ後で、ついた足跡だった。  良かった! 良かった!  朋子は、弾むような足取りで歩き出した。  学校までの道が、少しも遠く感じられなかった。  でも──どこへ行ったのか、その後、もうあの子犬の姿を見ることはなく、朋子もいつか忘れて行ったのだった……。  春先には、用心しないと。  ──よく、邦子が言っていた。  遅くなるときは、電話するのよ。  でも、その日は、運が悪かった。──もちろん、朋子も、もう中学一年だったから、体も大分大きくなっていたし、決して臆《おく》病《びよう》な子じゃなかったのだ。  それに、中学に入ってからは、却《かえ》ってバス通学になって、歩く距離は短くなっていた。近所に、友だちもできて、一緒に行くことが多くなり、その点でも安心していられたのである。  だが、その日は、友だちが風邪で休み、邦子は親類の法事で出かけていた。  朋子は、テニス部の練習が長びいて、バスを降りたのがもう六時過ぎになっていた。  春になったとはいえ、六時となると、もう辺りは暗い。  家も大分建ち始めたが、まだ雑木林はあちこちに残っていたし、街灯も、申請してあるけれど、まだつけられていなかった。  道が簡易舗装されたのが、まあ、唯一の「お上《かみ》の仕事」ということだった。  朋子は、足早に家への道を辿《たど》った。  だしぬけに、腕をつかまれて、朋子は、 「キャッ!」  と声を上げた。  ──見たことのない男だった。  不精ひげののびた、異様な風《ふう》態《てい》。 「──な、何ですか?」  朋子の声が震えた。 「何か、持ってないかい」  男は、舌っ足らずな声で言った。酒くさい臭《にお》いがして、朋子は顔をしかめた。 「あの──お金なら、少し──」 「金じゃねえよ。食いもんは?」 「食べるものなんて──持ってません」  手を振り離そうとしたが、腕をつかんでいる力は意外に強くて、とてもかなわなかった。 「放して下さい」  と、朋子は言った。 「そう急がなくたっていいじゃねえか。──なあ」  口もとを歪《ゆが》めて笑うと、男は、朋子の胸に手をのばした。 「やめて!」  朋子は、声を上げた。「──誰《だれ》か! 助けて!」 「静かにしろよ。──なあ──」 「いや! いやだってば!」  朋子は必死で暴れた。思い切りけり上げると、男の足に当たったらしい。 「いてえ!」  と、男が呻《うめ》いた。  今だ!  朋子は、男を突き飛ばして、鞄《かばん》も何も投げ出して、駆け出した。  逃げられる、と思ったのがいけなかった。男は、そのくたびれた様子からは考えられないほどの勢いで、追いかけて来たのだ。  背後から、ぐいと抱き止められて、朋子はもがいた。 「静かにしろ!」  朋子の首に、男の手がかかった。──朋子は、ぐっとしめつけられて、息ができず、もがいた。  そのまま、引きずられるようにして、林の中へ、押し倒された。  男が、のしかかってきて、その重さに、朋子は、身動きできなかった。 「やめて……お願い」  声は、か細かった。 「静かにしろって言ってるだろう!」  男が平手で朋子の頬《ほお》を打った。焼けつくような痛みで、朋子は気が遠くなった。  どうなったんだろう?──一体何が──どうしてこんなことが──。  自分に何が起こっているのか、よく分らなかった。  背中の所に木の根っこが当たって、痛んだ。涙が出て来る。男の酒くさい息が、顔にかかっても、もう逃れる力もなかった。  ああ。──どうしたっていうんだろう?  どうしてこんなことが自分に起こるんだろう?  朋子はセーラー服が力まかせに引き裂かれる音を聞いた。そして──。  そのときだった。男がハッと体を起こした。  犬だ。  激しく、犬が吠《ほ》えたてている。 「やかましい!」  と、男が怒鳴った。「あっちへ行け!」  男が石を拾って、犬に向かって投げつける。と──犬が、宙を飛んで、男の上に飛びかかって来たのだ。  何が起こったのか、朋子にはよく分らなかった。急に軽くなって、体を起こすと、男が、もがいていた。ハアハアと喘《あえ》ぐ息が苦しげだった。  朋子は、目を見張った。──男の首筋から、血が噴き出している。  男は、もがき、呻いていた。声も上げられないようだ。  朋子は、道の方へと、よろけながら、転がり出た。  あの犬が、少し離れた所から、朋子を見ていた。茶色い、特別どうということのない犬。  しかし──その目は、まるで懐しい友人を見る人間の目のように、じっと朋子を見つめている。  その目に、見覚えがあった。──朋子には分った。 「あのときの──あのときの子犬ね! お前なのね!」  と、朋子は叫んだ。  犬の口の周りが、血で汚れていた。あの男の首をかみ裂いたのだ。  車の音がした。ハッと振り向くと、小型のトラックが、ゴトゴトやって来る。 「停《と》まって! 停まって下さい!」  朋子は、必死で手を振った。トラックが停まると、びっくりした様子の運転手が、顔を出した。 「どうしたんだね?」 「襲われて──そこに、男の人が──」 「よし、分った。──犯人か?」 「ええ、けがしてます。一一〇番を──」 「よし、任せなさい。ここにいるんだ」  小太りな、人の好《よ》さそうな男だった。  朋子は、トラックにもたれて、息を吐き出した。──恐怖が、改めて体の芯《しん》までしみ込んで来るようだ。  体中の痛み、そして殴られた頬《ほお》の痛み、首の周りの、ヒリヒリする痛み……。  自分の身に、何が起ころうとしていたのか、今になって朋子にはやっと分って来たのだった。  朋子は、ハッとして、あの犬のいた方へと目をやった。──もう、あの犬の姿は、どこにもなかった。 3 「ああ!」  と、思わず声を上げて、朋子は、頭を垂れた。  体中から、汗が噴き出して来る。 「お疲れさま。──朋子、頑張ったわね」  ポン、と肩を叩《たた》かれても、朋子は、返事もできなかった。  クタクタだ。──テニスコートは、白い光の下で、途方もない広さのように感じられた。 「朋子。行こうよ」  テニス部仲間の、和《かず》子《こ》に促されて、朋子はやっと体を起こした。 「──疲れた」  と、首を振る。 「タオル使う?」 「いらない。どうせシャワー浴びるんだし」  と、朋子は言った。「とてもかなわないわ」 「仕方ないわよ。相手三年生なんだもの」 「でも……」  ──夜間のテニスコート。  高校に入ったころ、朋子は、家の近くにできたこのテニスクラブに入会した。  もともと、中学で少しやっていたせいもあって、朋子の腕は、めきめき上達していた。今、高校二年生。  高校でもテニス部に入っている。  一年生のときから、かなりの腕前だった朋子は、むしろ上級生には受けがよくなかった。  和子と二人でシャワールームへ入って行くと、今、朋子と対戦していた、三年生の河《かわ》井《い》今日《きよう》子《こ》が、もうシャワーを浴びて、出て来ていた。 「ありがとうございました」  と、朋子は頭を下げた。 「いつもこんな所で練習してられて、羨《うらや》ましいわ」  と、今日子は言った。 「ええ……」 「これじゃ、うまくならない方が不思議よね。──じゃ、明日」  河井今日子が、さっさと出て行く。 「──いや味ねえ」  と、和子が言った。「自分だってテニスクラブに入ってるくせして」 「実力の世界よ。仕方ないわ」  と、朋子は言った。「ああ、汗びっしょり。──シャワー浴びようよ」 「うん。私は大して汗かいてないけどね」  と、和子は笑った。  その笑いが、朋子の気持ちを、少し軽くしてくれた。  正直なところ、少々──いや、かなり気の重い朋子だった。テニスをやめてしまおうか。  そんなことも考えたりしていたくらいである。  ──熱いシャワーを浴びると、少し、体が軽くなったような気がする。  明日は、地区予選に出場するメンバーを選ぶための試合がある。テニス部の中では、三年生の河井今日子と、朋子の二人が飛び抜けて強かった。  河井今日子は、三年生といっても、背も高く、足も長くて、テニスの腕では大人並みだった。いつも冷静で、計算し尽くした試合運びをする。  強いだけに、そして、ほとんど友人らしい友人のいない性格のせいもあってか、反感をかうことも多かった。  朋子は、二年生でもあり、初めから、代表は今日子だと思っていた。試合をするまでもなく、力の差ははっきりしていたのである。  しかし、今日子の方が承知しなかった。  そして、二年生、一年生の部員たちは、はっきり、朋子を応援していたのである。  朋子としては、気の進まない試合に出たくはなかったのだが、今日子の方が、 「代表はちゃんとトーナメントで選ぶべきよ」  と言い出したのだ。  誰《だれ》も、今日子に逆らえない。  この三日間の試合で、結局、予想どおり、今日子と朋子の二人が残った。明日は、二人の対戦。  その前夜に、 「ちょっと手合わせしようよ」  と、今日子の方が言ったのだった。  朋子は、左右にゆさぶられ、ヘトヘトになって、完敗した。明日も、もちろん、勝ち目はない。 「──いやだなあ」  服を着て、帰り仕度をしながら、朋子は言った。 「どうして? 仕方ないよ、負けたって」  と、和子は言った。 「でもさ。──先輩は、ざまあみろ、っていう目で見るだろうし……。私、テニス部、やめようかしら」 「来年は我々が三年生よ。あと少しの辛抱じゃない」 「でもね──」  と、朋子はバッグとラケットを取り上げながら、「馬鹿らしくって、こんなことで頭悩ますなんて」  二人が外へ出ると、表はもちろん真っ暗である。 「ちょっと怖いね、この辺」  と和子が歩きながら言った。 「そうね。──私、一人じゃ歩かないんだ」 「そうか。朋子、ひどい目に遭ってるもんね、昔」 「昔ってほど古くないよ」  と、朋子は言った。「まだ、今でもゾッとする」  そう。──あのころに比べると、大分安全にはなって来た。  家もふえたし、車もよく通る。街灯も、一応は完備された。  それに、雑木林が姿を消したのが、何といっても安心だった。もちろん、庭の中の木は残っているが。 「──あら、朋子」  と、和子が言った。「あの犬」 「本当だ」  朋子は笑って、手を振った。──ワン、と一声吠《ほ》えて、あの犬が、尻尾《しつぽ》を振るのが見えた。 「感心ねえ」  と和子は首を振った。「遅くなると、ちゃんと待ってるじゃないの」 「そうなのよ。うちで飼ってるわけじゃないのにね」  そうなのだ。──その犬は、相変らず、ただの「犬」でしかない。  名前も、何も分らないのだ。  首輪をしていないから、野良犬になったのかもしれないが、それにしても、どこでどうして暮しているのか……。  中学生のとき、襲われたのを助けられて、両親もさすがに、 「その犬なら、飼ってもいいよ」  と言い出した。  飼犬なら、飼主に礼を、と、貼《は》り紙もして捜したのだが、ついに見付からなかった。  あれからも、朋子だけは、時々、あの犬を見かけた。  近くにいるわけではないが、たとえば校庭で遊んでいると、金網越しに、じっと朋子の方を眺めているあの犬を見ることがあった。  学校の帰り、友だちとおしゃべりしながら歩いていて、ふっと振り返ると、ずっと後ろから、あの犬がついて来ていたり……。  和子が、からかって、 「あの犬、きっと朋子のことをひそかに想《おも》ってるのよ」  と言うのが、いかにもピッタリ来て、笑ってしまうくらいだった。  それに──これまでにも、朋子は、その犬に救われていた。  朋子と母の二人の日、夜中に強盗が入りかけたことがある。一一〇番しようにも、電話線を切られていて、窓ガラスを割って、強盗は中へ押し入ろうとした。  そのとき、甲高い犬の鳴き声が、闇《やみ》を破ったのだ。──あの犬だ、と朋子は思った。  激しく吠《ほ》えつづける犬に、強盗は結局諦《あきら》めて退散した。  中学三年のとき、クラス委員だった朋子は、不良のグループに呼び出されて、学校の裏で危うく私刑《リンチ》されるところだった。  そのときも、あの犬がいつの間にか朋子の前に立って、唸《うな》り声と鋭い牙《きば》をむき出して、不良たちを追い払ってしまったのである。  一体どこで見ているのかしら、と不思議になるほどだった。  そして今──こうして帰りが夜遅くなったときなど、あの犬が、帰り道のどこかで待っていてくれる……。  和子と別れ、朋子は、家路を辿《たど》った。犬の方は、五、六メートル遅れてついて来る。 「──ご苦労さま」  と、朋子は家の前まで来て、犬が寄って来ると、声をかけた。「いつも、ありがとう……。お前のおかげで、何度も助けられたわね」  朋子は、しゃがみ込んで、犬の頭を、そっと撫《な》でた。──もうあのときの子犬ではない。  体も大きく逞《たくま》しくなっていた。普通に歩いていても、ちょっと人目を引くほどの大きさである。 「明日の試合に勝てるように祈っててちょうだいね」  と、朋子は言って、犬の鼻先に、そっと頬《ほお》を当てた 。「──おやすみ」  と手を振って、玄関へ小走りに、そして振り返ると、もうあの犬の姿はなかった。 「──朋子、大丈夫?」  と、和子が心配そうに言った。 「うん」  朋子は肯《うなず》いた。  青い顔をしている。自分でも分っていた。  緊張のあまりである。  部室で、仕度を済ませ、河井今日子が来るのを待っていた。 「コートの方は?」  と、朋子は言った。「見に来てる?」 「うん……。少しはね」 「二人きりなら、まだ気が楽なんだけど」  と、朋子は呟《つぶや》いた。  ドアが開いて、河井今日子が入って来た。 「お待たせしたわね」  と、今日子はラケットとバッグを置いた。「すぐ行くわ。お先にどうぞ」 「ええ」  朋子は、タオルを肩にかけ、和子と一緒に部室を出た。  今日子の方は、自信満々である。当然のことだ。  ゆうべ、あれだけ徹底的に朋子を叩《たた》きのめしている。──今日、あれをみんなの前で再現するつもりなのだ。  固くなった朋子は、たぶん手も足も出ないだろう。  惨敗は目に見えている……。  できることなら、逃げて帰りたかった。 「──凄《すご》い」  と、朋子は呟いた。  コートの周囲は、学生で埋っていた。  朋子は怯《おび》えた。──本当に引き返したい、と思った。  そのとき、ふと、朋子の目は、歩道のわきの茂みの向こうに、茶色い、動くものを見ていた。  犬?──あの犬かしら?  一瞬、チラッと見えただけだが、その色と動き方に、どこか見《み》憶《おぼ》えがあったのだ。 「──朋子が来た!」 「朋子!──朋子!」  ワーッと学生たちが声を上げる。  朋子は、深呼吸した。行かないわけにはいかなかった。 「朋子……」  と、和子が言うと、朋子は笑顔を作った。 「開き直るか!」  ──コートに入って、二年生を相手に少し打ち合っていると、少し気持ちもほぐれて来た。  もちろん、今日子に勝てるわけはないが、それでもいい、と思った。ただ、見っともない負け方はしたくない。  周囲の目は気にすまい。 「──今日子、どうしたのかな」  と、三年生の部員が言った。 「もう時間よ」 「呼んで来ようか」  と、一人が言ったとき──。 「キャーッ」  と、悲鳴が上がった。  コートが静まり返った。  河井今日子が、テニスウェアで、入って来る。──が、よろけたかと思うと、ガクッと膝《ひざ》をついた。  その太《ふと》腿《もも》から、血が流れ出し、足首にまでいく筋も、赤く伝い落ちていた。 「──河井さん!」  朋子は、ラケットを投げ捨て、駆け寄った。 「しっかりして!」  抱き起こした朋子は、「お医者を! 早く!」  と叫んだ。  今日子の太腿に、傷口が開いていた。朋子は思わず目をそむけた。 「犬が……」  と、今日子が呻《うめ》くように言った。 「え?」 「犬が……かみついて来た……」  朋子は、息を呑《の》んだ。──犬が?  まさか──まさか、あの犬が?  大騒ぎになっていた。テニスコートは大混乱だった……。 「頑張ったね」  和子が、ポンと朋子の肩を叩《たた》いた。 「うん……」  朋子は肯《うなず》いた。 「何だ、元気ないなあ」  和子は、すっかり上機嫌である。「二年生で地区予選二位よ! 大したもんじゃない。威張っていいのよ」  帰り道だった。──まだ日は高い。  穏やかな午後だった。しかし、朋子の胸は晴れない。 「でもね……」  と、朋子は言った。「河井さんが出てれば、一位になれたかも」 「しょうがないわよ。みんなせいぜい四位と思ってたのが二位だったんだから。先生だって大喜びだったじゃない」 「うん」  分ってる。しかし……。 「河井さん、悔しかっただろうなあ」  と、朋子は言った。 「そりゃね。だけど──仕方ないよ」 「そうね」  朋子は、少し間を置いて言った。「河井さんをかんだ犬、見付かったのかしら?」 「まだみたいよ。彼女も、だしぬけで、よく見てなかったっていうから、分んないんじゃない?」 「そう。──気の毒だわ。下手すると、もうテニスできなくなるかもしれないって……」 「聞いたわ。よっぽど犬にも嫌われてたんだね」 「和子。そんなこと言っちゃいけないわ」  朋子は、暗い表情で言った。 「朋子はね、少し気をつかい過ぎるのよ。もっと気楽に! ね?──自分のせいでもないことで、そんなにクヨクヨしてたって、始まらないよ」 「うん……」  朋子が気にしているのは、もちろん今日子のこともだが、むしろ今日子をかんだ犬のことだった。  まさか──まさかとは思うが、あの犬が……。  そんな! そんなことがあるわけはない。だって──だって、あれはただの犬なんだから。どうして今日子にかみついたりするだろう。 「──じゃあね、朋子」  と、和子が手を振って別れて行く。  朋子は黙って歩いて行った。一人で。  そう。もちろん一人だった。前にも後ろにも、人は歩いていない。一人に決っていた。  朋子は、しかし、何かの視線を感じた。どこかで自分を見つめている目を。  ことさらに、じっと前方だけを見つめて歩き続けた朋子は、家の前まで来て足を止めた。──振り向いてはいけない! 見ちゃいけない!  だが、朋子は振り向いた。──あの犬がいた。  じっと朋子を見つめているその犬の目は、輝いて見えた。得意げに、どうだい、とでも言うように。  朋子は、身震いした。足下から這《は》い上がって来る恐怖を感じた。 「やめて!」  朋子は叫んでいた。「あっちへ行って!」  朋子は、家の中へと駆け込んで行った。 4 「どうしたんだい?」  と、和田が訊《き》いた。 「──え?」  朋子がハッと我に返った。 「何だかぼんやりしてるね」 「ごめんなさい」  と、朋子は言った。「ちょっと──疲れてるの」  車は渋滞していた。──たまのドライブに出ればこんな風だ。 「これじゃ、行って帰るだけで夜になっちまうな」  と、和田が首を振った。「悪かったね、くたびれに来たみたいだね」 「ううん。そんなこと構わないのよ」  と、朋子は言った。  車の列は延々とつながっている。 「ねえ、君は……」  と、和田が言いかけて、ためらった。 「え? 何なの?」 「いや──こんなこと言うと気を悪くするかもしれないけど──はっきりしておいた方がいいと思うんだ」  朋子は和田を見た。 「つまり……」  和田は、じっと前方へ目をやったまま、言った。「僕たちのことさ。──このままじゃちっとも先へ進まない。そう思わないか?」 「ええ。──分るわ」 「はっきりさせてほしいんだ。僕は君と結婚する気だし、君もそのつもりだと言ってくれた。だったら、はっきり君のご両親にも言っておきたい」 「ええ。そうね」 「いいのかい? 何だか君が、ご両親に会わせたがっていないみたいなんで、僕は心配だったんだ。もしかして君の気持ちが──」 「私は変らないわ」  と、朋子は急いで言った。「あなたが好きよ。変らない。本当よ」 「そう。──それならいいんだ」  しかし、和田の顔は、一向に晴れなかった。  朋子にも分っている。和田のせいではないのだ。  といって、朋子のせいでも──いや、やはり朋子のせいだったのかもしれない。  朋子は怖かった。和田を失うのが。  でも、このままでは、別の意味で、和田を失うことになるかもしれない、と思った。  そう。──どこかで決心してしまわなければ。  朋子は、大きく一つ息をつくと、じっと前方へ目をやった。 「和田さん」 「うん?」 「戻りましょう。こんなこと、時間がもったいないわ」 「そうだなあ。──仕方ないね」  と、和田は肯《うなず》いた。 「都内へ戻って、二人でどこかへ行きましょうよ」 「どこも混んでるだろうね、こんな日じゃ」 「そうね。──でも、一部屋ぐらいなら……」 「一部屋?」 「あなたのアパートじゃ、うるさいんでしょ、女の人を連れて来ると」 「まあ……ボロアパートだからね」 「じゃ、どこか、ホテルに行きたい」  朋子は紅潮した顔を伏せた。 「君……」 「どうせ結婚するんだから。──ね?」  和田の方も、面食らっている。 「そりゃ僕の方は──でも、君は、いいのか?」  朋子は、和田の手を握った。 「ええ。これ以上、待っていたくないわ」  和田が戸惑うのも当然だった。しかし、こうなれば、別にどうだっていい──と、男なら考えて当たり前である。 「じゃ、Uターンしよう」  和田は、強引に車をUターンさせて、周囲の車から派手にクラクションを浴びたが、一向に気にしなかった。  そんなこと、知ったこっちゃない。早く、一刻も早く、東京へ戻りたかった……。  朋子は大きく息をついた。  薄暗い天井に、はめ込んだ鏡が光っている。そこに映っている白いものが、自分の顔や腕だとは、信じられないようだった。 「──大丈夫かい?」  和田が訊《き》く。朋子は、ちょっと微笑《ほほえ》んで見せて、 「うん。──幸せよ、私」  と言うと、やっと和田も安心したようだった。 「ああ、疲れた! こんなに疲れるもんだとは思わなかったよ」 「ご苦労さま」  と言って、朋子はちょっと笑った。「眠ったら?」 「いや、いくら何でも……」  と言いながら、和田は大《おお》欠伸《あくび》をして、五分後にはグーグー眠り込んでいた。  朋子は、じっと天井の鏡を見つめていた。  あわただしい初体験だったが、後悔はしていない。これで、和田と結ばれたのだと思うと胸が熱くなった。  しかし──気持ちが鎮まって来ると、また不安が頭をもたげて来る。  今日も待っているのだろうか、あれは?  朋子は目をつぶった。しかし、瞼《まぶた》の中に焼きついた像は、消すことができないのだ。  血だらけになって倒れていた、学生服の若者……。  高校三年生になって、転校して来たのが彼だった。ちょっとおとなしい、知的なムードのある少年。  和子などは、 「ああいう生《なま》っちろいの、いやよ」  と言っていたけれど。  でも、朋子は一目で彼にひかれた。少年の方も、朋子と会ったり、話したりするのを喜んだ。  初恋。──朋子は、たぶんクラスの中で、一番遅かったかもしれないが、これが初めての恋だった。  朋子は、少年を家にも連れて来て、両親に会わせた。──父はいい顔をしなかったが、それはまあ仕方のないことだ。母は、少年が気に入っていたらしい。  二人の仲は、時々、恐る恐るキスをする、という段階に止《とど》まっていて、しかし、それで二人とも満足していた。  ──彼が、何度目かに、朋子の家へ遊びに来たときだった。 「どうしたの、元気ないのね、今日は」  と、朋子は訊《き》いた。 「そういうわけじゃないよ。ただ──」 「何かあったの?」 「いや、何だか気味悪くてさ」 「私が?」 「まさか!」 「じゃ、何なの?」 「うん……。このところ、いつも学校の帰りに、出会う犬がいるんだ」  朋子はドキッとした。しかし、彼の方は、朋子を見ていなかった。 「犬……どんな犬?」 「まあ──ごく普通の、茶色のさ。大きいけどね」 「その犬が、あなたに吠《ほ》えつくの?」 「いや、吠えるんなら、当たり前だから、どうってことないさ。その犬、じーっと僕の方を、黙って見てるだけなんだ。却《かえ》って気味悪いよ」 「そうね……」  朋子の表情はこわばっていた。──あの犬だ。でも、どうして……。  あれ以来──河井今日子がかまれたとき以来、朋子は、あの犬を見かけていなかったのだが……。 「まあ、ただの犬だからね。どうってことないや」  と、彼は言った。  その夜、彼は家に帰らなかった。  次の日、彼が工事現場で、穴に落ちて死んでいるのが発見されたのだ。──なぜ彼が、通り道でもないそんな場所にいたのか、恐怖の表情を浮かべて死んでいたのはなぜなのか、知っていたのは、朋子一人だった……。  ──もう決して。  朋子は、ベッドの中の和田に体をすり寄せて行った。──もう、決して、あんなことはくり返させないから!  夜には、雨になった。──ホテルを出た二人は、彼の車で朋子の家に向かった。  今日、両親に話をしてしまおうということになったのである。 「──この先だっけ?」 「もう一つ向こう。雨だとよく分らないわね」 「ああ、そうか。ここを曲がるんだね」  カーブを切った。ヘッドライトが、雨に濡《ぬ》れた道を光らせた。  ぐっとアクセルを踏んだとき、何かが、目の前に飛び出して来た。 「ワッ!」  急ブレーキを踏む。スリップして、車が横になった。何かが、ドン、とぶつかった。 「──犬だ!」  和田は息をついた。「畜生! ああ、びっくりした」  車のライトの中に、あの犬が、道の端に投げ出されるように倒れているのが浮かんで見えた。──動く気配もない。 「見て来よう」  と、和田は、ドアを開けかけた。 「やめて!」  朋子は、反射的に、和田を止めていた。 「──どうしたんだい?」 「いえ──だって、もう死んでるわよ」 「うん……。だけど、一応──」 「仕方ないわ、いきなり出て来たんですもの。ね、このまま行きましょう」 「そうだな……。じゃ、可哀《かわい》そうだけど、行くか。──成仏してくれよ」  和田は、車の向きを直して、走り出した。  朋子は、振り返って、犬が、暗がりの中へと消えて行くのを見ていた。 「──良かったわ、本当に」  と、母の邦子がホッとしたように言った。「なかなか連れて来ないから、どうしたのかと思って」 「いいじゃないの、そんなこと、お母さん」  と、朋子は言った。 「はいはい」  邦子が、笑いながら、席を立って行く。 「──まあ一杯やりたまえ」  と、父がビールを注いだ。 「お父さん、和田さんは車よ」 「いや、ビールの一杯くらい大丈夫」  と、和田がコップを取り上げる。 「そうだとも。ここまで育てた一人娘をくれてやるんだ。少々飲まんで帰すもんか!」 「お父さんたら、理屈になってないわ」  と、朋子は笑った。  笑いながらも、ホッとしていた。──父も母も、和田の申し込みを、スンナリと承知してくれたのである。  和田も興奮している様子だった。頬《ほお》が上気していたのは、アルコールのせいか、それとも有頂天になっていたせいか、よく分らなかった……。  ──結局、和田が朋子の家を辞したのは、十時過ぎだった。 「どうも」  と、頭を下げて、和田が玄関を出る。  朋子は、車の所まで、ついて来た。 「雨、上がったのね」 「そうか、気が付かなかった。雨なんて降ってたんだっけ」 「大丈夫? しっかりしてよ」  と、朋子は笑った。 「ああ! 最高に幸せだ!」  と、和田は言った。 「私もよ」  ──二人は唇を合わせた。 「じゃ、また電話するよ」 「ええ」 「あれ? 後ろの窓が開いてら。畜生、雨、降り込まなかったかな。──ま、いいや」  車のドアを開け、和田が乗り込む。 「気を付けてね」  と、朋子は、窓越しに言った。  和田が窓ガラスを下ろして、顔を出すと、二人はもう一度キスした。 「──おやすみ」 「おやすみなさい」  と、朋子は手を振った。  和田の車が道へ出る。朋子も、道まで出て、車が走って行くのを、見送った。  向こうから、トラックらしいライトが近付いて来る。  ──あの匂《にお》い……。  最後にキスしたとき、ふと鼻についた、あの匂いは、何だったろう?  朋子の顔から血の気がひいて行った。あれは──あれは──。 「待って!」  と、叫んで、朋子は駆け出した。「待って! 危ない!」  突然、和田の車が激しく右左へとジグザグに突っ走った。トラックがクラクションを鳴らす。  朋子は見た。──トラックのライトの光の中に、和田の首筋へ、覆いかぶさるようにしている犬のシルエットを──。  トラックが、和田の車の横腹にぶつかった。──重量の差は、歴然としていた。  和田の車は、空缶か何かのように、押し潰《つぶ》された。火花が飛び、ガラスが飛び散った。  トラックが停《と》まったとき、もう和田の車は、ただの鉄クズと化していた。  朋子は、呆《ぼう》然《ぜん》と、光景を眺めて、立ち尽くしていた。  そのとき、朋子の耳は、はっきりと聞き取った。  クゥーン、という、子犬の、哀《かな》しげな鳴き声を。 いなかった男の遺産 1 「谷《たに》川《がわ》さんって」  と、戸《と》田《だ》絹《きぬ》子《こ》が言った。 「いるかいないか分らないのね」  谷川は仕事の手を休めて、ちょっと面食らった様子で、顔を上げた。いや、実際、誰《だれ》だって、突然そんなことを言われたら……。 「ごめんなさい。気を悪くした?」  と、戸田絹子は笑顔で言った。 「いや、別に」  谷川浩《こう》一《いち》は首を振って、 「ただ、ずいぶん懐しい言葉を聞いたもんでね」  と、言った。  戸田絹子は二十八歳。三十六の谷川から見れば、八つも年下ということになるが、短大を出てすぐこの会社へ入っているから、すでに勤続八年。二十六で今の会社に入った谷川と、二年しか違わない。  お互いの気分としては、ほとんど「同期」という感じなのだ。少々何か言われたからといって、気を悪くする仲でもない。 「懐しい?」  と、戸田絹子は谷川が仕事をしている机の端に腰をかけた。 「どうして懐しいの?」 「いや、小学校とか中学校で、通信簿をもらうと、よく書いてあったんだ。 〈いるかいないか分らないくらい、おとなしい〉ってね。それを思い出してさ」  絹子はちょっと笑って、 「何だか想像がつくわね、そのころの谷川さん」  谷川は、手を休めて、お茶を一口飲んだが、いれて来てずいぶんたったので、すっかり冷めてしまっている。  ここはオフィスではなく、倉庫である。  谷川は、資料担当の総務課員なので、ここでの仕事が多い。総務が四階にあるのに、倉庫は地下一階。  上り下りするのが面倒なので、調べることが多い場合には、よくこの倉庫へこもって仕事をしているのである。  倉庫だから、あまり居心地がいいとは言えないにしても、一応、ちゃんと机はあるし、そう埃《ほこり》っぽくもないので、むしろ静かなだけ仕事がはかどるのだった。 「何か用事だったのかい?」  と、谷川は訊《き》いた。 「そうよ、もちろん」  このところ少し太って、それが却《かえ》って「色っぽくなった」と評判になっている絹子は、ただでさえ大きい目を、更に見開いて、 「谷川さんと浮気でもしに来たと思ってるの?」 「まさか」  と、谷川は笑った。 「でも君は独身だろ。浮気にならないじゃないか」 「オフィスラブなんて、面倒くさくていやね」  と、絹子は首を振って、 「そうでしょ? 恋人って、たまに会うから新鮮。一日中、同じ職場で顔をつき合せてるんじゃ、すぐ飽きちゃう」 「結婚すりゃ、いやでも顔をつき合せるよ」 「でも、そうかしら? 営業の人なんか、女房と何日もまともに話してない、なんて人、いくらもいるわ」 「なるほど。確かにそうかな。遅く帰って、寝るだけじゃ」 「ねえ、『風《ふ》呂《ろ》』とか『めし』とか言うだけじゃ、会話とも言えないでしょ。だったら、会社の女の子の方が、よほど話をしてることになるわ」 「侘《わび》しいね、それも。──僕は総務で良かったよ」  と、谷川は正直にそう言った。 「久《く》仁《に》子《こ》さん、話し相手がいなかったら、それこそ苛《いら》々《いら》して大変じゃないの」  谷川の妻、久仁子は、以前ここに勤めていたので、絹子も知っているのだ。 「そうだな。我が家の会話の八割は、あいつがしゃべってる」  と、谷川は笑った。 「いえ、上でね、 『谷川さん、どこかしら?』って訊《き》いたのよ。あなたの課の人たちに。そしたら、一人は『お休みでしょ 』。一人は『早退するとか言ってなかったっけ?』ですって」 「やれやれ」 「決定的なのは、あの新人の子。 『谷川さんなんて人、いた?』ですもん」 「そこまで行くと、目立たないのも芸の内だね」  と、谷川は苦笑した。 「ま、人畜無害が僕のモットーさ」 「そうだ。人が来るんだった」  と、絹子は腕時計を見た。 「──で、肝心の用件だけど、金《かね》田《だ》部長がお呼び」 「ええ?」  と、谷川は目を丸くした。 「おい、早く言ってくれよ」 「今じゃなくていいの。お昼休みに、食事がすんだら、一番上のサロンに来てくれ、って」 「金田部長が? 何だろう、用って?」 「知らないわ。じゃ、よろしくね」  と、絹子は、ニッコリ笑って見せると、倉庫から出て行った。  お昼休み、か……。谷川は、また仕事を始めたが、前ほど能率は上らなかった。  谷川は、今のところ何の肩書もない。しかし、同期入社、あるいは同年代の何人かが〈係長〉や〈課長〉になっているのを見ても、何とも思わなかった。  自分が、人の上に立つタイプでないことは良く承知している。大体、人付合いとか、上司とうまくやって行くことは大の苦手だ。こうして、倉庫に一人こもって、資料の整理とかしているのが、実のところ、一番気楽なのである。  金田部長の用というのは、何だろう?  谷川が不安になったのは──もしかして、 「出向」とか「転勤」とかいう話かもしれない、と思ったからだ。  もしそうだったら、どう言って断ろう?  早手回しに、谷川はそう考えたりしていた。  そうなると、仕事が手につかなくなる。──結局、昼休みまで、谷川はほとんど仕事をせずに終ってしまった……。  昼食をすませて席へ戻ると、十二時三十分。──食べるのは五分ですむが、どの店も並んで待たないと入れないのである。  もういいかな。このビルの最上階の「サロン」は、来客の接待用の喫茶室である。原則として、課長以上でないと利用できない。 「お茶を一口飲んでから行くか」  と、呟《つぶや》いて、ともかく椅《い》子《す》を引いて座る。部長は、たった五分でソバを食べておしまい、ってこともないだろうし……。  自分で給茶機のお茶を入れて来て、ゆっくり飲んでいると、外線の電話が鳴り出した。  周囲を見ても、出てくれそうな人はいない。仕方なく、谷川は出ることにした。  昼休みにかけて来るなよ、全く……。 「はい、 〈K商会〉でございます」  と、言うと、いきなり、 「何だと思ってるのよ、人のことを!」  と、もの凄《すご》い声が飛び出して来て、谷川は仰天した。 「あの──」 「あのね、お宅のインチキ商品のおかげで、こっちは大迷惑なのよ!」 「は?」  どうやら、向うは主婦らしいが……。 「どうしてくれるの! ご近所に顔向けできないじゃないのよ! 私……もう……」  怒鳴っていたかと思うと、今度は泣き出してしまう。谷川は、唖《あ》然《ぜん》としたが、放っておくわけにもいかず、 「あの……落ちついて下さい。ご事情をうかがいたいんですが」  と、言うと、 「あんた誰《だれ》?」  と来た。 「は?」 「名前は?」  訊《き》かれると、答えないわけにもいかないのだが……。しかし、一《いつ》旦《たん》名前を憶《おぼ》えられて、何かというと、こっちへ電話して来られても困る。  少しためらっていると、 「あんたね!」  と、向うが更にボルテージを上げた。 「ごまかしたってだめよ! 声に聞き憶えがあるわ」 「待って下さい。私は総務の人間で──商品の苦情でしたら──」 「何言ってんの! あんた、小《お》田《だ》さんでしょう!」 「小田? いえ、私──谷川と申します」  少し沈黙があってから、 「谷川?──本当?」 「はあ」  何だ、この女? 谷川は、ため息をついた。妙な電話に出ちまったよ。 「営業のね、小田って人を出して。いなきゃ責任者の人。分る?」 「小田……ですか」 「そう! 小田和《かず》哉《や》。外を回ってるんでしょうけど、上司に言ってやりたいことがあるの!」 「待って下さい」  と、谷川は言った。 「営業の小田、ですか? 間違いありませんか?」 「ちゃんと、ここに名刺があるわ」  と、向うは自信たっぷりだ。 「はあ……。しかし……うちの社に小田という者はおりませんが」 「何ですって!」  金切り声が飛び出して来て、谷川は、あわてて受話器から耳を離した。   「──遅くなりまして」   と、サロンの隅のテーブルへ急いでやって来た谷川は、頭を下げた。 「電話でつかまりまして……」 「まあ、かけろ」  金田は、部長といってもまだ四十代の半ば、ゴルフで日焼けしているが、それを除けば、 「重役らしい」ところはあまりない。  背広姿がなかなか渋くて、会社の若い女の子と、ちょくちょく噂《うわさ》にもなっている。五、六年前に、よそから引き抜かれて、部長になった。営業の要《かなめ》ともいうべき人物である。  総務も、組織上は、この金田の下に入っている。おかげで、交際費とか、事務費とか、この何年か、大分見直しをして、切りつめられて来た。 「もう一時になるな」  と、金田は腕時計を見た。 「申し訳ありません。わけの分らない苦情でして……。いもしない社員に、粗悪品をつかまされた、という苦情なんです」  金田が、眉《まゆ》をひそめて、 「何だって?」  と、訊《き》き返した。 「詳しく話してくれ」 「はあ……。ですが……」 「いいから。午後の時間に食い込んでも構わん。話してみろ」  金田は真剣だった。 「はい……。実は──」  と谷川は電話の内容を説明した。 「──小田なんて社員はいない、といくら言っても信じてもらえなくて……。まあ、うちの社の名前を使ってる奴《やつ》がいるのかもしれませんし、そうなると、問題ですから、一応、営業の係長に話しておこうと思いますが……」 「小田、といったのか、その男」  と、金田は言った。 「はあ、そうらしいです。一応調べた方が──」 「もちろんだ」  金田は肯《うなず》いた。 「実はね、谷川君。君に話があるといったのは、このことなんだよ」 「はあ?」  と、谷川は目をパチクリさせた。 「小田という男が、あちこちに出没しているんだ。うちの社員として。──どうも何かありそうだ」 「すると──これ以外にも?」 「その程度のことならいい。それだけじゃないんだ。うちの名で勝手に取引の話を進めたり、銀行にも顔を出している」  谷川は唖《あ》然《ぜん》とした。 「──何か頼め」  と、金田は、ウェイトレスを呼んだ。 「コーヒーにするか?」 「はあ……」  コーヒーが来て、谷川が飲み始めるまで、金田は話を進めなかった。 「しかし、部長。そんなことをして何になるんでしょう?」 「それが分らんから、困っているのさ。もちろん、君が受けた苦情などは、多少の金を手にできるということもあったろう。しかし、そう大金とは思えん。そうなると、うちの社の、イメージダウンを狙《ねら》った動きとも取れるじゃないか」 「営業妨害ですか」 「まあな。──何か問題を起すことで、その後、付合う気をなくさせる。分るかね」 「はあ、何とか──」 「どこだって、面倒に巻き込まれるのはごめんだろう。たとえば警察沙《ざ》汰《た》になるようなことはね。一度でも、そんなことがあれば、たとえうちとは関係ない人間のしたことだとしても、次からうちを敬遠したくなる」 「その気持は分りますが……」 「君、調べてくれないか」  谷川は面食らって、 「私が……ですか」 「うむ。──あんまり大げさにはしたくないのさ。下手に騒いで、週刊誌辺りにかぎつけられても困る。そうだろう?」 「しかし……私は、そういうことは至って不器用でして……」  と、谷川は言った。 「誰《だれ》も、こんなことに慣れている奴《やつ》はいないさ」  と、金田はちょっと笑った。 「しかしね、君はこういう仕事に向いてるんじゃないかと思うね」 「私が、ですか」  と谷川は当惑して、 「人を相手という仕事が、どうしても苦手でして」 「しかし、君、よく会社の女の子の相談にのるそうじゃないか」  谷川はびっくりした。金田がどうしてそんなことまで知っているのだろう? 「まあ……時々は、ですが」  ともかく、妙なことを押し付けられたくない、という気持が先に立って、谷川は用心しながら答えた。 「どうしてだと思う? 君が、何となく話しやすい相手だからだ。君なら、プライバシーに関することを、他人にしゃべりまくったりしないし、話をよく聞いてくれる、と思われているからだよ」 「はあ……」 「そういうのも一つの才能だ。相手に警戒心を起させずに、話をすることができる。君は自分で気付いていないかもしれないが、それは有効に利用すれば、君の大きな武器になるよ」 「武器ですか」  谷川は、やはり釈然としなかった。確かに、耳に入って来る、ゴシップの類《たぐい》を、人にさらに脚色してしゃべる、という趣味はない。しかし、それはむしろ、自分が面倒に巻き込まれたり、後で恨まれたりしたくない、という気持があるからなのだ。 「いいだろう、君」  と、金田は谷川の肩を、ポンと叩《たた》いた。 「期待してるんだよ、僕は」  ここまで言われたら、命令も同じである。拒むわけにはいかないのだと谷川も悟った。 「分りました。しかし──どうやったらいいんでしょう? 見当も付きません」  と、谷川は正直に言った。 「そうだな。まず第一は──」  と、金田は両手を組合せて、お祈りでもするように胸のところに置いて、言った……。 2 「何ですって?」  谷川久仁子は、台所で、鍋《なべ》をかき回しながら、夫の話を聞いていたが、 「──あなた、大きなお皿を出して」 「うん……。これかい?」 「もっと大きいの。その下──そうじゃなくて、隣の扉を開けて!──そう、それを二枚出して。ここへ置いて」  谷川は、帰りの時間が大体決っている。残業は、三月の決算や事業報告の時期など、ごく限られた期間を除けば、ほとんどないので、たいてい六時半には家に着き、夕食は一緒に取っている。  営業の連中が、 「家で夕飯食ったのなんて、何か月前かな」などと話しているのを聞くと、たとえ給料は少なくても、自分の方がどんなに恵まれているか、と思うのだった。 「──どうしてうちに、 『小田さん』あての電話がかかって来るの?」  と、食べながら久仁子は言った。 「だから、説明したじゃないか。その小田ってのが、うちの社員だとでたらめを言って──」 「それは分ったわよ。あなたに、そんなこと調べられるのかしら」 「僕もそう言ったんだけどさ。──ともかく部長の命令だ。やらないわけにいかない」  と、谷川は言った。 「ともかく、まずその小田って奴《やつ》が、どれくらいの範囲で動き回ってるか、知らなきゃいけないんだ。だから、ここの電話番号を教えれば、たぶん、みんな伝え聞いてかけて来る」 「それで、被害にあったのが誰《だれ》なのか、分るってことか」  と、久仁子は肯《うなず》いた。 「だけど──昼間にもかかって来るんでしょ、電話?」 「それなんだ。君は大変だろうと思うけどさ……。今、小田は出ておりますので、とだけ言って、相手の名前と連絡先を聞いておくだけでいいんだ」  久仁子は、ガブッとお茶を飲んで、 「──高いわよ、バイト料」  と、笑った。  谷川はホッとした。ろくでもないことを引き受けて、と怒り出すかと思ったのだ。 「面白そうじゃない。でも、変な人がいるのねえ」 「全くだ。しかし、よほど口の達者な奴だろうな。それといかにも正直そうで……。でなきゃ、みんなそう簡単に信用しやしないだろう」  久仁子が急に笑い出した。 「──何だよ?」 「だって──あなたが、その『小田』って詐欺師ってことになるんでしょ?」 「形の上だけだ」 「でも──おかしいわ。あなたとちょうど正反対じゃないの」  そう言われても、腹は立たない。 「確かになあ……。口が達者で、きっと人当たりのいい男なんだ。俺《おれ》とは大分タイプが違うな」  と、肯いてから、 「しかし、正直って点は俺だって──」 「分ってるけど、その点、向うは正直を装ってるだけ。やっぱり逆には違いないわ」  なるほど、と谷川は思った。 「おい、おかわり。──コンブ、あるか?」 「あるわよ。またお茶漬?」 「これをやらないと、ご飯を食べた気がしないんだよ」  谷川は、久仁子がいれ直してくれた熱いお茶を、ゆっくりとご飯の上に注いだ。 「その小田さんも、お茶漬が好きかしら」  と、久仁子が言った。 「知らないね」  ──久仁子は先に食べ終えて、のんびりお茶をすすっている。  三十二歳にしては、久仁子は若く見える。──子供がいないせいもあるかもしれないが、大体がふっくらした童顔で、着るものの趣味も若い。  そして、今もどこか「いたずらっ子」の面影を残した笑顔……。 「ねえ、あなた」  と、久仁子は言った。 「その小田って人を見付けたら、どうするの?」 「さあね。後は上が考えるさ。刑事事件にはしたくないだろうからね」 「私、一度その小田って人に、会ってみたいわ」  と、久仁子が言った。   「──ごめん下さい」  と、谷川はこわごわ、声を出した。 「ごめん下さい」  チャイムを鳴らしても返事はないし、当然、留守なのだろう。しかし、谷川としてはせっかく腹を決めてやって来たのに肩すかしというのでは、情ない気分だったのである。 「来たくて来たんじゃないや……」  と、グチっている。  ここは、もう大分古そうな団地の棟の一つ。  同じような棟がズラッと並んでいるので、ここを見付けるのにずいぶんかかってしまった。──すっかり汗をかいている。 〈河《かわ》井《い》〉という表札。住所のメモと見比べて、ここに違いない、と確かめると、谷川は、どうしたものかと迷った。  出直すか。しかし、今日が何しろ「小田和哉」の第一日目だ。初めっから出直しというのも……。  しかし、少なくとも、河井良《りよう》子《こ》には、谷川が「小田」だという作り話は通用しない。河井良子は、あの耳を突き破りそうな勢いの電話をかけて来た主婦である。当然、小田のことを知っているわけだ。  谷川は、まずお詫《わ》びかたがた、事情をゆっくり説明し、また小田という男──たぶん本名ではあるまい──について、聞きたいと思って、やって来たのである。  しかし、留守じゃ仕方がない。  谷川は、もう一度、念のためにチャイムを鳴らしてみた。 「──どなた?」  急に、すぐそばで声がして、谷川はびっくりした。──小柄なエプロン姿の主婦が立っている。 「河井さんにご用?」 「ええ。しかしお留守のようで──」 「さっき出かけたわ。駅前に出る、って言ってたから、二時間ぐらいはかかると思うわよ」 「二時間ですか……」  待つには少し長い。といって、出直して来るのは馬鹿らしかった。 「何のご用?」  と、その主婦は言った。 「私、お隣の大《おお》津《つ》というの。代りにうかがっておいてもいいけど」 「はあ」  そんなわけにはいかないのだ。何しろ──。  ふと……谷川は、思い付いた。こんなことをしていいのかな? しかし、どうせ、やらなきゃならないのだ。 「そうですか」  と、谷川は、ちょっと咳《せき》払《ばら》いをして、 「私、K商会の小田と申します。河井様から、ぜひ連絡を、というおことづけがございましたので、伺ったのですが」  できるだけ、営業の人間風にしゃべってみる。 「小田……さん?」  大津というその主婦は、目を大きく見開いて、谷川を眺めた。 「じゃ、河井さんが話してた──」 「何か、私のことで?」 「いえ。──別に」  なぜか、急にコロッと言葉を変えて、 「ね、よろしければ、うちへ上ってお待ちになりません?」 「お宅へですか……。しかし二時間も待たせていただくわけには──」 「構わないの、ちっとも! どうせ、夕方まで、TVでも見てるんだから。ね、お上りになって」  ほとんど引張られるようにして、谷川は隣の家へ上るはめになった。 「──大津敏《とし》江《え》というの、私」  と、コーヒーを出してくれながら、 「河井さんね……ちょっと困ったことになってるのよ」 「はあ」 「私は河井さんより四つ年下なんだけど、あの人とは古くからここで隣同士。この辺、入れかわりも激しくて、親しい人って少なくなったの」 「はあ……」 「だから、お互い、色々ご主人に内緒のことも打ちあける仲、ってわけ」  大津敏江は、自分もモーニングカップでコーヒーを飲んでいた。 「だからね──知ってるのよ、あなたのこと」 「はあ、そうですか」  しまったな、と谷川は思った。知っているといっても、小田本人だとは思っているらしいから、顔は知らないのだろう。 「──あなたが紹介した化粧品、安物だって苦情が出て、河井さん、青くなったわ。もちろん、河井さんが悪いことをしたわけじゃないけどね」 「はあ……」  やれやれ。これじゃ、本当の身分を明かした方が良さそうだ。 「いや、失礼しました」  と、谷川は言った。 「実は、私はその小田って人物のことを調べるために、伺ったんです。K商会の者で──河井さんが苦情を持ち込まれたものですから、当方としても、責任を感じておりまして。で、私が上司の命令で、こうして──」  谷川は、言葉を切った。大津敏江が笑いだしたからだ。 「何か、おかしいことでも?」 「ごまかしたってだめよ。急にコロッと態度を変えて」 「いや──」 「ね、私が河井さんから聞いたのは、それだけじゃないのよ」  大津敏江が立ち上った。そして、窓のカーテンをシュッと引く。──居間は薄暗くなった。  谷川が面食らっていると、 「聞いたわよ」  と、大津敏江は谷川の前に立って、 「河井さんを、抱いたそうじゃないの」 「抱いた……?」  谷川は目を丸くした。 「とんでもない、私は──」 「別人ね、分ったわ」  と、小馬鹿にしたように、 「でもね、あなたを警察へ突き出すこともできるのよ。そうでしょ?」 「奥さん──」 「見逃してあげてもいい。今日、ここへあなたが来たことを、黙っていてあげてもいいわよ」  谷川は、大津敏江が服を脱ぎ始めるのを見て、唖《あ》然《ぜん》とした。 「何してるんです?」 「河井さんを、あんなにとりこにしたんだから……」  と、下着姿で、谷川の膝《ひざ》の上に乗って来る。 「その味を知りたいの」 「あの……いけません! 僕は、その──」 「気にしないで」  と、大津敏江は腕を谷川の首に回して、 「私、河井さんって、大嫌いなの」 「嫌い……?」 「そう。親がお金持だとかで、少しぜいたくしてると思って、こっちを見下してさ。いつも頭に来てたの。いい気味よ」  大分話が違う。しかし──ともかく、こんなことをしているわけには……。 「今ね、河井さん、お金の工面に、実家へ行ってるのよ。ご近所に損かけた分、返さなきゃ、って。いい薬だわ、あの人には……」 「あの──やめて下さい」  ネクタイを外されそうになって、谷川はあわてて言った。 「いいじゃないの。──どうせ、時間はあるんでしょ?」  時間がありゃいい、ってもんじゃない! しかし、次の瞬間、谷川は大津敏江の体重をもろに受けて、ソファの上に引っくり返っていた。  そして──しばらくの間、起き上らなかったのである。  タクシーが動き出しても、しばらく谷川は口もきけなかった。 「どちらへ?」  と、運転手が二度目に訊《き》いて、やっと我に返ったものの、 「会社へ」  などと言って、笑われてしまった……。  しかし──何てとんでもないことになってしまったんだろう?  久仁子……。気が付くだろうか? 石ケンの匂《にお》いをプンプンさせて帰ったら。  許してくれ、久仁子。俺《おれ》はそんな気じゃなかったんだ。つい、フラッとして……。  いや、もちろん、あれが「仕事」だったなんて言い逃れはしない。いくら仕事のためでも、あんなことをする必要はないのだ。  大津敏江にいくら誘惑されても、断固として退けるべきだった。それがどうしてできなかったんだ?  表の風景に目をやって、谷川は、ため息をついた。──浮気なんて初めてだ!  だが……正直なところ、谷川の思いは別のことの上にあった。俺が、最後まで小田だと信じ込んでいたのだ、あの女は、最後まで。  谷川の方が信じられないくらいだった。──これまで谷川は、女にもてるとか、女を喜ばせるほどの精力旺《おう》盛《せい》な男だと、自分のことを考えたことはなかった。  しかし、大津敏江はすっかり満足し、気が抜けたようになって、 「最高だわ!」  と、呟《つぶや》いたのだった。 「うちの亭主なんかとは大違い!──河井さんが夢中になったの、無理ないわ」  まさか! 俺《おれ》はプレイボーイなんかじゃない。  そりゃ久仁子を抱くことはあるが、そう度々ってわけでもないし、どっちかといえば二人とも淡白な方で……。その俺が「最高」だって?  ──きっと、よっぽど男に飢えてたんだなあの女。  谷川は、そう思って自分を慰める(?)ことにしたのだった……。 3 「あら」  と、声がして、谷川は顔を上げた。 「やあ、外出だったのか」 「ええ。先方で時間食っちゃって……」  と、戸田絹子は言って、谷川の方へやって来た。 「まだ仕事?」 「うん。──このところ、机にいることが少ないんでね。どうしても、たまっちまう」  谷川は、伸びをして、 「今、何時だろう」 「八時過ぎ」 「もう?──七時半くらいかと思ってたよ!」  と、谷川は言った。 「そろそろ引き上げるかな」 「谷川さん」  と、戸田絹子は、隣の机にちょっと腰をかけて、 「このごろ、どうしちゃったの?」 「何が?」 「残業がずいぶん多いじゃない」 「それは──」 「噂《うわさ》は聞いてるわ。部長の特命で、苦情の処理に駆け回ってるんですってね」 「まあね」  その情報は、金田部長が故意に流したもので、 「小田」の存在を知られないためには、何か「噂」を流しておいた方がいい、というわけだった。 「でも、それなら、普段の仕事を減らさなくちゃ。──今まで通りやらせとくなんて、ひどいわ、部長も」 「そう長いことじゃないさ」  谷川はファイルを閉じた。 「──戸田君、帰るのかい?」 「ええ、このまま帰れるから」  と、スーツ姿の絹子は肯《うなず》いた。 「じゃ、何か食べないか、その辺で」 「でも──久仁子さんは?」 「遅くなるって分ってるから、夕食の仕度はしてないんだ。帰るまでもたないよ」 「じゃあ……。私も助かるわ」 「おごるよ」 「わあ、嬉《うれ》しい」  と、絹子は笑った。 「後が怖いかな」  谷川も、一緒に笑った。  ──谷川が、 「小田」のことを調べ始めて二週間たった。 「小田」の現われた範囲は、初めの想像以上で、久仁子は初めの数日、一日に、七、八件の小田あての電話を受けていた。久仁子は、ブツクサ言いつつ、楽しんでいる様子で、谷川は正直、ホッとしている。  谷川は、その一件一件を当っているのだが、驚かされるのは、小田の顔を知らない人間が、谷川のことを小田と思って、連絡して来たりした時だ。  向うがあんまりこっちを大物扱いしてくれるので、谷川は面食らってしまうのである。  もちろん説明すれば、 「何だ」ということになるのだが、谷川は時に、自分が「小田でない」と言うのをためらうことがあった。  取引先や、大手の会社へ出向いて、いちいち部長や専務クラスの人間が、出て来てくれることなど、 「谷川として」なら、ありえないことである。  それが──よほど業界内に「小田」の名は知れ渡っていると見えて、向うの方がびくびくしているのだ。どうやら、背景に右翼とか暴力団が絡んでいると見られているせいらしい、とやっと谷川にも分って来た。  そして──大物扱いされるのは、紛れもなく快感だったのである。 「──いいの、こんなお店?」  と、絹子は、ワインを飲みながら、少々気がひけている様子だった。  フランス料理の店で、まあ確かに、谷川のこづかいで入るには少々高い。  しかし、今、谷川は金田から「調査費」をもらっているのだ。それを回しても、別にばちは当るまい。 「君のいいと思うように使ってくれ」  と、金田に言われている。 「大丈夫だよ。ちょっと、懐があったかいんだ、今」  と、谷川は言った。 「そう。じゃ、遠慮なく」  と、絹子は微笑《ほほえ》んだ。  少し酔って、目のふちをほんのり染めている絹子は、いつもオフィスで見るのと別人のようだった。気のせいかもしれないが──まるで谷川を誘っているかのように見える。  おっと。用心、用心。  調子にのるなよ!──あんなことは一度で沢山だ。  幸い、久仁子は何も気付いていない様子だが、これ以上、危険は犯せない。いや、もちろん、絹子の方だって、そんな気はないのだ。気のせいだよ。 「でも、谷川さんって変ったわ」  と、料理を、目をみはるほどの勢いで食べながら、絹子は言った。 「僕が?」 「ええ。──このところ、何だか──そう、自信に満ちて来たっていうのかな」 「そうかい?」 「給湯室の一番の話題は、今、あなたのことよ」 「おいおい──」 「本当よ。この前、 『谷川さんって人、いたっけ?』ってやってた子が、 『すてきじゃない。ああいう人、付合ってみたい』って」 「どういう風の吹き回しかね」  と、谷川は苦笑した。 「あら」  と、絹子は言った。 「私がそう思ってる、って言ったら?」 「おどかしっこなしだよ」  と、谷川は言ってやった。 「いいワインだね」 「逃げたわね」  ──食事を終え、外へ出たのは、もう十時を大分回っていた。 「さて、君、地下鉄だったね」 「送ってくれないの?」 「いや──その──」 「冗談よ」  絹子は笑って、 「でも──その気になったら、いつでも呼んで」  ごちそうさま、と手を振って、絹子が立ち去ると、谷川はホッとした。  重ねて誘われたら、ついて行ったかもしれない、と思ったのである。あんないい同僚を、こんなことで失いたくない。 「しっかりしろ!」  と、谷川は自分の頭をコツンと叩《たた》いた。  夜道を、駅の方へ歩き出す。ワインでほてった頬《ほお》に、風が快かった。  車が一台、スッと傍《そば》へ寄って停《とま》った。 「やあ」  窓から声をかけて来たのは、どう見ても知らない男。 「何か?」 「乗れよ、小田さん」  と、その男は言った。 「え?」 「乗れよ」  と、くり返したのは、後ろの座席でドアを開けた男だった。 「いや──すぐですから、駅」  と、谷川は遠慮した。 「いいから、乗れ」  運転していた男が、ナイフをスッと谷川の目の前に突き出した。 「はい……」  ここは言うことを聞くしかない。後ろの座席へ座ると、すぐに車は動きだした。 「どこへ行くんです?」  と、谷川は訊《き》いた。 「あんた次第で、どこへでも」  と、その白っぽいスーツの男は言った。 「地獄の一丁目でもいいがね」  どうも、剣《けん》呑《のん》な話らしい。 「あの──私はですね──」 「知らんだろうな、俺《おれ》たちの邪魔をしてくれたことは」  と、その男は言った。  五十歳前後か。髪を短く刈って、顎《あご》の尖《とが》った鋭い顔をしている。 「邪魔といいますと……」 「T社の株買い占めのことさ。俺たちが狙《ねら》ってるのを、アッサリ横どりしやがって」  谷川は青くなった。──小田の奴《やつ》、そんなことまでやっていたのか! 「名前だけは聞いてたぜ、あんたのな」  と言ってから、 「おっと失礼。こっちが名のるのが遅れたね。俺は安《やす》野《の》というんだ。ま、ケチな奴さ」  とても、そうは見えない。着ているスーツも一級品だ。 「あの──誤解されているようですが」  と谷川が言いかけると、 「俺たちも、わけの分らねえことは言いたくない」  と、安野は遮った。 「あんたの腕が良かったってわけだ。こっちはいさぎよくシャッポを脱ぐよ。しかしな、俺はそれですんでも上の方はそうはいかねえ。少しでも食いちぎって来い、ってわけだ」 「ですから、違うんです!」 「話を聞くために、乗ってもらったんじゃないよ」  と、安野は首を振った。 「聞いてもらうためだ。分るかね?」  谷川は、突然気が付いた。──脇《わき》腹《ばら》に押しつけられている固いものに。 「あの仕事が、もうすっかりけりがついちまったのなら、他の口でもいい。今、あんたの狙ってる奴に、こっちも一枚かませてもらう。それでいいんだ。──分るかい?」  谷川は黙っていた。口がきけなかったのである。 「優秀な人材は、俺《おれ》たちもほしい。あんたの気が向いたら、俺の所を訪ねて来い」  安野は、ヒョイと一枚名刺をとり出し、それを谷川の上《うわ》衣《ぎ》のポケットへ入れた。 「──おい、停《と》めろ」  車が停ると、ちょうど駅の前だった。 「降りないのかい?」 「いえ……。降ります」 「こっちから近々連絡する。よく考えとくんだな」  と、安野は言った。  車から外へ出て、車が走り去るのを見送ると、とたんに全身からどっと汗がふき出した。  膝《ひざ》が震える。  冗談じゃない!──もう、こんな仕事はごめんだ! 「部長は?」  と、谷川は言った。 「出張よ。そう言ったでしょ」  と、戸田絹子が不思議そうに、 「健忘症?」 「いや……もう帰ったかな、と思って」 「明日一杯は無理ね。ニューヨークですもの」 「ニューヨークか……」  こっちも行っちまいたいよ。  谷川は、自分の机に戻った。  あの安野という男におどしつけられて、三日。──即座に、 「小田」のことから手を引こうと思ったのに、肝心の金田は出張。  毎日、あの安野から、電話がかかって来るんじゃないかと気が気ではない。  といって、あの件は、金田以外の人間では分らないのである。  電話が鳴って、ギクリとする。もちろん出ないわけにはいかないのだが。 「はい」 「あの──小田さんという方──」  またか! 谷川は怒鳴りたくなったが……。待てよ。この声は……。 「もしもし、そちらは?」 「あの──大津と申します」  あの女だ! 谷川は少しためらったが、 「奥さん、私です」  と、少し低い声で言った。 「まあ! 良かった」 「いいですか、私は小田じゃないんです。谷川という別の人間なんですよ」 「ええ、分りました」  今度は谷川が面食らった。 「何ですって?」 「あなたが違うというのに、こっちが勝手に思い込んで……。すみません」  と、大津敏江は真面目《まじめ》な口調で言った。 「いや、分って下されば」 「実は、今、河井さんの所に来てるんです」  と、大津敏江が言った。 「来てる? 誰《だれ》が」 「小田ですよ!」  谷川は、一瞬言葉が出なかった。 「奥さん、それは──本当ですか?」 「ええ、二十分くらいになるかしら。でも、ついさっきカーテンを閉める音がしたから、まだ多分いると思うわ」 「これからすぐ行きます!」  谷川は、受話器を置くと、席から飛び上るように立って、ロッカールームへと駆けて行った……。  タクシーは時間がかかる。  電車とバスを乗り継いで、四十分ほどであの団地へと着いた。  棟の下の出入口で、大津敏江が待っていた。 「どうしました?」 「まだいるわ。大丈夫」 「良かった! 困ってたんです。何としても取っ捕まえてやらなくちゃ」  二人は、棟の中へ入って行く。 「谷川さん、とおっしゃるのね」  と敏江が言った。 「この間のことは──」 「お互い様です。忘れましょう」  ホッとしたように、敏江が肯《うなず》く。 「ありがとう! でも──すてきだったわ」  谷川は、聞かなかったふりをした。 「──もう声がしないわ」  と、河井良子のドアの前で、敏江が耳を澄ます。 「きっと、もうすぐ出て来るわ」 「確かにいるんですね」 「ちゃんと下で見張ってたのよ」 「分りました。じゃ──奥さんは家へ入っていた方が。河井さんと、気まずくなっても困るでしょう」 「まあ。──気をつかって下さるのね」 「ともかく、中へ。後は任せて下さい」  谷川は、あわてて敏江を帰らせた。  そして、ちょっと咳《せき》払《ばら》いすると、河井良子の部屋のドアを叩《たた》いた。 「──失礼。──誰《だれ》か──」  カチリと音がして、ドアが開く。 「お邪魔しますよ。私は──」  玄関へ入ったとたん、谷川は頭を思い切り殴られ、そのまま気を失ってしまったのである……。 「──大丈夫?」  と、敏江が言った。 「いてて……」  谷川は、やっと起き上った。 「どうしちゃったんだ?」 「いつまでも静かだから、覗《のぞ》いてみたら、あなたが倒れてたのよ」 「どうも……。じゃ、逃げちまったな、きっと、小田の奴《やつ》」  やっとの思いで立ち上る。 「誰かいましたか?」 「中へは上ってないわ。でも、奥さんがいれば出て来るでしょうけどね」 「そうですね……」  谷川は、玄関から家の中を覗き込んだ。 「誰かいませんか」  我ながら、何となく間の抜けた図である。誰かいりゃ、とっくに出て来ているだろう。 「でも、おかしいわ」  と、敏江が言った。 「何です?」 「これ、奥さんのサンダルよ。いつもこれはいてるの。家にいるんじゃないのかしら。──奥さん!」 「入ってみましょう。もし何かまずいことになってると……。そこが居間ですね」 「ええ、そう」 「寝室まで覗くのはちょっと──」  その必要はなかった。  河井良子は、居間にいた。ただし──床に倒れていたのだ。  首にはきつく紐《ひも》が巻きついていて、白目をむいて……。どう見ても生きて昼寝しているところとは思えない。  谷川は、ペタン、とその場に座り込んでしまった。 「いたの?──まあ」  と、大津敏江がやって来て、目をみはる。  しかし、谷川のように腰を抜かすことはなかった。 「この人……ですね、河井良子さんは」 「そうよ。でも──それじゃ、小田がやったのかしら?」 「らしいですね」  谷川は、震える膝《ひざ》を何とか黙らせて、やっとこ立ち上った。 「殺されてる! 何てことだ!」 「一一〇番しなきゃ……ね」  敏江と谷川は顔を見合せた。 「そう。もちろんそうです」 「でも──何て言うの?」 「そりゃあ……」  証明できるか? 自分がこの件にどう係っているのかを。  特に、今は金田がいない。谷川の話を裏付けてくれる人間は、一人もいないのである。 「弱ったな……。あなたは、小田の顔を見たんですか?」 「顔は知らないわ」 「でも、小田がここへ来てるって──」 「声が聞こえたの。ちょうど玄関を開けたら。──河井さんが、 『小田さん。待ってたのよ』って言ってるのが。入って行く男の足だけチラッと見えたけど、それだけ」 「参ったな!」  谷川は、ため息をついた。 「小田の顔も分らない。しかもこっちは……」 「ね、谷川さん」 「何です?」  二人は、顔を見合せた。──そして、黙って河井良子の家を出て行ったのである。 4  遅いな……。  谷川は、腕時計を見て、首を振った。どうせ、久仁子のことだ。あれを着て行こうか、これにしようか、と迷ってるんだろう。  それだけで三十分くらい、すぐたってしまうのだから。  そう急いでいるわけでもなかった。レストランの予約は、三十分後になっていたし、ぎりぎりになれば、すぐこの喫茶店を出ればすむことだ。 「やれやれ……。慣れないことをするもんじゃないよ」  と、谷川は、呟《つぶや》いて、水を飲んだ。  もうこりごりだ。部長が戻り次第、この仕事はやめさせてもらう。会社そのものまでクビにはなるまい。  万一クビになったとしても、殺人だのヤクザだのに巻き込まれるよりはましだ。何か仕事はあるもんさ、えり好みしなきゃ。  ──結局、河井良子のことは、外の公衆電話から匿名で一一〇番し、それで忘れることにした。大津敏江も、自分の浮気がばれかねないのだから、谷川のことをしゃべったりしないだろう。  あとは警察に任せるさ。そうだとも……。  谷川は、会社へ戻ってから、家へ電話をして、久仁子に夕食を外で取ろうと言ったのである。  もちろん、ちゃんと自分の金で払うし、戸田絹子におごったような、高級な店じゃない。それでも、このところ退屈している様子だった久仁子は、喜んで、すぐに行く、と言っていた。  そうさ。──俺《おれ》みたいな小物にゃ、こういう楽しみが似合ってるんだ。  そう思い切ると、気も楽になる。さて……久仁子はいつになったら、やって来るんだろう? 「──お客様」  と、ウェイトレスがやって来た。 「失礼ですが、小田様でいらっしゃいますか」  その名前を聞いてドキッとする。 「え──あの──」 「久仁子さんという方からお電話が」  久仁子の奴《やつ》! ふざけてるんだな、全く!  苦笑いしながら、カウンターの電話に出て、 「もしもし、小田ですがね」  と、言ってやった。 「あなた……。私よ」  久仁子には違いない。しかし、何だか心細そうな声を出している。 「どうした?」 「よく聞いて。いくら説明しても分ってくれないの」 「誰《だれ》が?」 「俺だよ」  突然、相手が代った。 「分るかね」  安野だ!──谷川の顔から血の気がひいた。 「あの──」 「かわいい奥さんがいるんだな。そのくせ外じゃ、他人の女房をつまみ食いか」  と、安野は笑った。 「久仁子を──久仁子をどうしたんだ!」 「落ちつきな。大物らしくな。いいかい、奥さんは預かる」 「何だって?」 「とりあえず、こっちに損害をかけた分、三千万を穴埋めしてもらおうか。その先は、また相談にのるぜ」 「おい──」 「名刺は渡したな。連絡を待ってるぜ」  と、安野は言った。 「二十四時間以内。それなら、奥さんは手をつけないで返す。二日たったら、こっちで少々可愛《かわい》がってから返す。三日たったら……。まあ、言わなくても分るだろう。じゃ、またな、小田さん」  ポンと電話は切られてしまった。  谷川は、しばし呆《ぼう》然《ぜん》と受話器を持ったまま突っ立っていたが……。 「そうだ」  と、呟《つぶや》くように言った。 「レストラン、キャンセルしなきゃ……」  ここか……。  谷川は、戸惑いながら、そのマンションを見上げた。  谷川辺りでは、ちょっと手が出そうにないマンションである。──大したもんだな。きっと、親に金を出してもらってるんだ。  郵便受の名前を見て行くと、確かに〈戸田〉という名がある。戸田絹子のマンションなのである。  金田が帰らないとなると、どうやって久仁子を救い出せばいいのか。途方にくれて、絹子に相談してみようと思い立ったのだ。  もちろん三千万なんて金、どこをどうはたいたって、出て来やしない。 「三千円の間違いじゃないよな……」  と、エレベーターで、谷川は呟いた。 「久仁子……」  あの安野とかいう奴《やつ》が、もしかしたら今ごろ久仁子のことを……。考えただけで、体が震えて来る。  俺《おれ》のせいだ。──何てことだ!  エレベーターを出て、廊下を歩いて行くと……。並んでいるドアの一つが、開いた。  出て来たのは、戸田絹子だった。──しかし、一人ではなかった。 「泊って行かないのね」 「仕方ないんだ。──そういう約束だよ」 「分ってるわ。言ってみただけ」  と、絹子は笑って、 「その内、首を吊《つ》って、化けて出るから」 「おどかすなよ……」  金田が、絹子に軽くキスして、エレベーターに乗って……。絹子は、エレベーターが一階まで行くのを見てから、ドアを閉めようとした。  そして、階段のところから顔を出している谷川に気付いたのだった。 「谷川さん……」 「見てたよ。──部長、帰ってたんだな」  と、谷川は言った。 「呼び止めようと思ったのに……。つい、気がひけてね」 「──入って」  バスローブをはおった絹子は、ドアを押えたまま、促した……。 「──何ですって?」  絹子がタバコに火を点《つ》けかけていた手を止めて、 「久仁子さんが?」 「そうなんだ。とんでもないことになったよ。──しかし、まあ部長が帰ってるんだから、説明してくれりゃ、何とか……」  谷川は 、涙がこぼれ落ちるのを感じた 。自分でもびっくりして 、あわてて手の甲で拭《ぬぐ》うと、 「やれやれ……。情ないね。女房をさらわれてメソメソ泣いてるんじゃ。──あの小田って奴《やつ》なら、どうするかね、こんな時は」  と、苦笑した。 「谷川さん……」  絹子は、ソファに身を沈めた。 「──私、こんなマンションに住める身分じゃないわ、分るでしょう?」 「うん」 「お金がどこから出てるかも」  と、絹子は目を伏せた。 「まあね……。でも、人にはそれぞれ事情ってもんがあるじゃないか。大人なんだ。とやかく言うことじゃないよ」 「私のこと……軽《けい》蔑《べつ》しない?」  ほとんど独り言のようだった。 「我が身を振り返りゃ、そんなことできやしないよ。そうだろ? 誰《だれ》だって何かしら秘密を抱いて生きてるんだ」  谷川は、大きく息をついて、 「──さて、部長、自宅へ戻ったのかな? これから行って話をしないと。──場所、知ってる?」  絹子は、立ち上ると、 「待ってて」  と、言った。 「一緒に行くわ」 「君も? そりゃありがたいけど……。でもいいのかい?」 「ええ」  と、絹子は肯《うなず》いた。  そして谷川の方へ歩み寄ると、身をかがめて素早くキスした。  ポカンとしている谷川を居間に残して、絹子はさっさと奥へ入っていく。  チャイムが鳴って、ソファでウトウトしていた金田は、目を開いた。 「何だ……。こんな時間に」  と、ブツブツ言いながら、インタホンの方へ歩いて行くと、 「──チェーンもかけといた方がいいわよ」  と、声がした。 「絹子!」 「鍵《かぎ》を持ってるのよ。忘れた?」 「いや、しかし──。何だ、一体?」  金田は顔をしかめた。 「自宅へは来るな、と──。女房は旅行中だからいいが」 「谷川さんが来たの」 「谷川が?」 「奥さんが安野に誘拐されたって」 「何だって?」 「もう、続けていられないわ。奥さんを見殺しにはできない。安野に事情を説明してあげて」 「馬鹿言うな! 大体、奴《やつ》がこっちの話なんか聞くもんか」 「でも、谷川さんが気の毒よ。本当に小田だと思われてるのよ」  金田は、声を上げて笑った。 「──結構じゃないか! こっちの計画通りだ。安野の奴、小田の女房だと思ってるんだな」 「谷川さんが話しても信じてくれないわ。あなたなら──」 「妙な同情はよせよ」  金田は、ソファに身を沈めた。 「あのマンション、この屋敷、別荘……。みんな会社の金だ。今さら、手を引くわけにはいかないよ」 「そのために、小田って男を作り出して、金を作り、穴埋めをして来たわ。でも、これ以上は──」 「潮時かもしれないな。──小田は消える。また誰《だれ》か別の男を作り出すか」  と、金田はニヤリと笑った。 「でも、今は谷川さんが小田だと思われてるのよ!」 「いいじゃないか。とっさのひらめきにしちゃ、悪くなかったろう? あいつを小田に仕立てる。何しろ本人がそう名乗って回ってるんだから、間違いない。──いずれ、あいつは姿を消すことになったさ。こっちの借金を一身に背負って蒸発ってわけだ」  絹子は、顔をこわばらせた。 「また──何かやったの?」 「急に監査が入ることになったんだ。二千万ほど、穴埋めしなきゃならん。結局、暴力団絡みの金で都合をつけた」 「じゃ、それを谷川さんに──」 「小田の名でね。調べれば、小田が谷川だってことは分る。追い回されるより、逃げた方が利口ってもんだよ」  金田は、寛《くつろ》いだ様子で、 「どうだ、何か飲むかい?」 「飲んでもいいわ」  と、絹子は肯《うなず》いて、 「三人でね」 「三人?」  金田の顔から血の気がひく。──顔を真っ赤にした谷川が、居間へ入って来たのだ。 「こいつ!」 「おい、待ってくれ──」  金田が逃げようとして、足がもつれ、転ると、その上に谷川が飛びかかって行く。  金田の悲鳴は、もちろん立派な造りの屋敷の外までは聞こえなかった……。  安野は、ドアを開けて、明りを点《つ》けた。  縛られて椅《い》子《す》に座らされている久仁子が、まぶしげに目を細くして、安野を見る。 「いい眺めだ」  と、安野は、唇を歪《ゆが》めて笑った。 「俺《おれ》は縛られた女が大好きでね。──安心しな。約束は守るさ。小田が、ちゃんと金を持って来りゃ帰してやる。あんたをいただくにしても、二十四時間は待つ、と言ってあるからな」  久仁子は、黙って、じっと安野をにらんでいる。頬《ほお》には涙の跡が残っていた。 「待つのも悪くない。楽しみは先にのばすとますます面白くなるもんさ。──のんびりしてな」  安野はドアを閉め、鍵《かぎ》をかけた。  物置に使っている小部屋で、窓がないので、この手の仕事には向いている。  安野は自分の「オフィス」へ戻った。  オフィス、といっても、ベッドを置いて、ここで寝起きしているのである。 「いい女だ……」  と、呟《つぶや》く。  初めは金が入れば、という腹だった。  しかし、久仁子を見て、気が変ったのである。──女も金もだ。  もし、小田が金を持って来ても、帰しゃしない。女は手もとに置き、小田の方は──まあ気の毒だが消えてもらう。  小田には迷惑をかけられたのだ。カッとなってやっちまった、と言えば、上の方でも分ってくれるだろう。  机の電話が鳴った。 「──ああ、俺《おれ》だ。──うむ。そうだな。今夜はもう出ない。──ああ、構わんよ」  安野は電話を切って……。  落ちつかない。どうにも落ちつかないのである。  あの女のせいだ。──あんなに若々しくて活《い》きのいいのは久しぶりだからな。  うるさいことは言いっこなしだ。二十四時間待つこともあるまい。 「よし……」  背もたれの高い椅子《いす》に座っていた安野は立ち上ろうとして──。 「ワッ!」  首がぐっと絞めつけられ、仰天して、ドスンと椅子に尻《しり》を落とす。いつの間にか、細い紐《ひも》が、後ろから首にかけられていたのだ。 「動くなよ」  と、低い、穏やかな声が椅子の後ろで聞こえた。 「この紐は細くて丈夫だ。──暴れると、肉を切るぜ」 「誰《だれ》だ! おい──」 「静かに。落ちついて話そうじゃないか」  顔は見えない。ともかく、首にきっちりと巻きついた紐が、椅子の背にも巻かれているので、少しでも左右へ首をやろうとすると、紐がぐっと食い込んで来るのだ。 「小田……だな」  安野は、かすれた声で言った。ゴクリとツバをのみ込むだけでも、紐が痛い。 「用心してしゃべりな。──なあ、知ってるかい。団地で女が殺されたのを」 「何だと?」 「小田って奴と付合っててな。うるさいことを言い出したのさ。で、寿命を縮めた、ってわけだ。首を絞められてね。紐が肉に食い込んで、そりゃあ痛そうだったぜ」  淡々とした口調が、安野を怯《おび》えさせた。こいつは──殺人狂か? 「おい……馬鹿なまねを……うっ……」  紐が、さらに食い込んで、安野は目をむいた。 「余計なことは言いっこなしだ。俺はね、忙しいんだよ。ビジネスマンは、予定が詰ってるんだ。分るかい? ──さあ、彼女はどこにいる?」  安野の顔は汗で光っていた。──こいつはまともじゃない。 「答えてくれよ。急ぐんだ。夕飯の予約をしてあるんでね。いいレストランは、予約の時間を守って行くもんなんだよ」 「そ……そこの……奥……」 「あのドアの奥? 別の部屋なんだろ? 鍵《かぎ》は?」  安野が、右手を上《うわ》衣《ぎ》のポケットに入れようとすると、また紐が締った。 「お手を煩わせちゃ申し訳ないからね。僕が自分で取るよ。──これか」  安野は、体が震え出して止らなかった。  ヤクザが相手なら、何十人いようと怖くない。しかし──こいつは別だ。 「なあ、安野さん。汚い手にも限度ってもんがあるぜ。女に手を出すなんぞ、およそ最低のやり方だ。男なら、そんな真似《まね》はするなよ。──女にだって、もてないぜ、それじゃ」  柔らかい手が、軽く安野の頬《ほお》を叩《たた》く。安野はゾッとした。 「また、ビジネスの話で会いたいもんだね、安野さん」  椅《い》子《す》が、ゆっくりと後ろへ倒れ始めた。 「おい……何を……何をするんだ」 「寝るところだったんだろ」  パタン、と椅子が仰向けに倒れる。そのショックで、安野は気絶してしまった。 「おやすみ、安野さん」  鍵《かぎ》を手の中で弾ませて、谷川は奥のドアを開けた……。   「あら」  ドアを開けて、大津敏江は嬉《うれ》しそうに、 「来てくれたのね、小田さん! じゃなかった──谷──」 「谷川ですよ」  と、笑いながら、 「色々お世話になって」 「いいえ。上りません?」  と、敏江は言った。 「今日はカーテンを開けとくから」  谷川はちょっと笑って、 「じゃ、失礼して」  と、上り込んだ。 「──犯人、おたくの部長さんだったんですって? びっくりしたわ」  と、谷川へコーヒーを出しながら、 「その人が、小田って名で色々やってたの?」 「自分だけでなく、他にも人間を雇ったりしてたんですよ。だから、小田っていうのがどんな男か、はっきりしない。却《かえ》ってそれが効果的だったんですね」 「迷惑だったわねえ」 「河井さんは気の毒でした。──実家が金持というので、少々の金なら泣き寝入りすると思ってたんですね。ところが、諦《あきら》めなかった」 「情がからんでいたからよ」  と、敏江が肯《うなず》く。 「お金より、そっちだったと思うわ」 「会社も上を下への大騒ぎです。イメージダウンは避けられないし……。で、ともかく今、全社をあげて、小田の立ち回った先を歩いているんです」  と、谷川は言った。 「でも、どうして私の所へ?」 「お礼も言いたかったし、それに河井さんを通して、粗悪品をつかまされた人に、弁償しなきゃいけません。相手が誰《だれ》なのか、あなたならご存知かと思って」 「そうなの。──大体は分るわ。二、三人、はっきりしない人もいるけど、調べられると思う」 「そうしていただけると助かります」  谷川は、コーヒーを飲んで、 「じゃ、これで……」 「あら、もう?」 「回らなきゃならない所が大分残ってるんです」  谷川は、腰を上げた。  玄関まで出て来た敏江は、ついでだから、と、棟を一緒に出て、歩き出した。 「──女房にばれましてね」  と、谷川は照れくさそうに言った。 「何とか勘弁してもらいましたが」 「良かったわ。──でも、どんな気分? ああいう男になってみるって」  谷川は、ちょっと考えた。  確かに、久仁子を助けるためには、一世一代の大芝居を打たなくてはならなかった。  そして、やってのけたのだ!  実際、谷川は、あんなにうまく行ったのが信じられない気分だった。戸田絹子が手伝ってくれたおかげでもあったのだが。  ああして安野が手もなく騙《だま》されたのは、 「小田」という虚像でしかない男を、信じていたからである。  人間なんて、先入観次第でコロッと変るものなんだ。──谷川はつくづくそう思った。  久仁子は、夫が助け出しに来てくれて、しかもヤクザの大物が目を回しているのを見て、呆気《あつけ》にとられていた。そしてすっかり谷川のことを見直した様子だった。  それはまあ、悪い気持ではない。  しかし──戸田絹子は、金田の共犯として自首して出た。谷川は貴重な同僚を失ったことで、胸が痛んだ。 「──柄じゃありませんね」  と、谷川は言った。 「己を知れ、ですよ」  そして、バス停に向って、足早に歩いて行く。  ──敏江は、谷川が、ちょうどやって来たバスに乗って行くのを見送っていたが……。 「敏江さん!」  と、顔見知りの奥さんたちが三、四人やって来る。 「あら、どうしたの?」 「今の人、誰《だれ》? ただごとじゃないね、って話してたのよ」 「そう?」  敏江は、ちょっと胸のときめくのを覚えた。──そう。別に浮気しようってわけじゃないけど……。ワクワクする、って、悪いことじゃないわよね……。 「そうだわ。あなた、河井さんから、例の化粧品を買わされたんだっけ?」 「ええ。そう。──ま、大した金額じゃないけど。じゃ、今の人が……」 「あの人、損をした人たちに集まってもらいたいんですって」  敏江がそう言うと、奥さんたちの間に素早く、意味ありげな視線が飛び交った。 「誰《だれ》と誰にする?」 「おしゃべりな人はだめ」 「そうね。人数も……五人ぐらいね」 「場所は?」 「一番目立たないのは──あなたの所じゃない?」 「任せて」  話は手早く決って行く。 「アルコールをパッと飲ませて、後はこっちのペースに巻きこんじゃえばいいのよ」  と、一人が目を輝かせている。 「楽しみだわ。──ね、大津さん、あの人、名前は何ていうの?」 「名前?」  敏江は、少し考えてから、 「そう──確か小田さんっていったわね」  と、答えた。  ──そのころ、バスの中で、谷川はクシャミをしていた。 駐車場から愛をこめて 「こんな遅い時間に、全く……」  私は車をゆっくりとビルの裏手へ進めながら、そう呟《つぶや》いた。  もう時刻は九時をとっくに過ぎている。会議は八時半からということだったから、私自身も遅刻していたわけだが、それには色々と理由がつけられた。  その一つは、私の本業は某私立大学の助教授であって、このビルの四階に入っている経営コンサルタントの会社の顧問という仕事は、あくまで副業にすぎないこと。その顧問というのも、私の師に当る教授に頼まれて、いやいや引き受けたのであり、おまけに無給に近いというのでは、とうてい熱心にその会社のためを考えようなどという気にもなれなかった。  第二に、こちらも多忙な身なのに、急に翌日の会議にぜひ出席していただきたい、などと電話をしてくる、会社側のずさんさが、元来几《き》帳《ちよう》面《めん》な私を苛《いら》立《だ》たせることだった。  加えて、夏の蒸し暑い夜の会合だというのに、冷たい飲物一つ出るでもなく、しかも省エネとかで、ビル全体が夕方五時には冷房を切られてしまっている。  全く、どうしてこのままUターンして家へ帰ってしまわないのか、と我ながら不思議に思いつつ、私は車を駐車場の入口へと向けた。  このビルの駐車場は地下二階にあって、いつも昼間は満杯の状態だった。昼の会議の時など、たいていは駐車場探しにこの近くをぐるぐると走り回るのが常である。  駐車場へと降りる、ゆるいカーブの坂を下って行くと、突然、ヘッドライトの中に人の姿が現れて、私はギョッとしてブレーキを踏んだ。キュッとタイヤがきしんで、車は間一髪の所で停止した。  危いじゃないか、全く!──私はホッと息をついた。額に冷汗がにじんでいる。  白い半《はん》袖《そで》のワイシャツ姿に、地味なネクタイをしめた若い男だった。  私は窓を降ろして、 「そんなところに立っていちゃ、危いじゃないか」  と言った。「もう少しではねちまうところだ」  だが、男は別に悪びれた風もなく、窓の所へやって来ると、 「駐車場は満車ですよ」  と無表情な声で言った。 「何だって?」 「満車ですから引き返して下さい」 「馬鹿を言うな!」  私は腹が立って、怒鳴った。「こんな時間に、そんなはずがあるもんか!」 「本当なんです」  とその男はのっぺりした口調でくり返した。「一杯なんですよ」 「じゃ、ともかく下まで行ってみる。その上で、本当に一杯なら戻って来るよ。それでいいだろう」 「満車なんです」  若い男は、まるで私の言葉が耳に入らない様子でくり返すばかりだった。私は苛《いら》立《だ》って来て、 「君は一体──」  と言いかけた。そこへ、 「いいのよ、中《なか》田《だ》君」  と女の声がして、ライトの中に、三十代の末か、あるいは四十になっていようかと思える、きつい顔立ちの女性が姿を見せた。「中へ入っていただきなさい」 「ですが──」 「いいのよ。もうあなたは駐車場の係じゃないんだから」  女の言葉に、中田と呼ばれた若い男は、急にしょんぼりした様子になって、 「はい……」  とうなだれてしまう。女は窓の所まで来て、私のほうを覗《のぞ》き込むようにして、 「失礼いたしました。どうぞ奥へ」  と、いかにも仕事に馴《な》れた感じの声で言った。私は肯《うなず》いて車を進めた。  駐車場には、ほんの二、三台の車があるだけだった。──全く、妙なこともあるもんだな、と思いつつ、私は適当な場所へ車を入れて、外へ出た。書類鞄《かばん》をかかえて、エレベーターのほうへ歩きかけると、背後に足音が聞こえる。振り向くと、さっきの女だった。 「どうも申し訳ありませんでした」  と女は頭を下げた。 「いや、別に……。しかし、こんなにガラガラなのに、どうしてあの男は──」 「気の毒な人なんですの」 「気の毒……。すると、少しおかしいんですか?」  至って助教授らしからぬ表現だった。 「ええ」  女は肯《うなず》いた。「中田君は、この四階にある経営コンサルタントの会社に勤めていまして──」 「おや、僕もそこへ行くところなんですよ。会議でしてね」 「そうですか。私は庶務におります八《や》代《しろ》充《みつ》子《こ》と申します」 「これはどうも」  見たことのない顔だったが、庶務の人間に会うことなど、めったにないのだから、それも当然だろう。  八代充子と名乗った女は、エレベーターの呼びボタンを押して、 「夜は一台しか動いていませんので、なかなか来ません」  と申し訳なさそうに言った。 「いや、構いませんよ」  私は微笑《ほほえ》んだ。地下の駐車場は、冷気がなかなか逃げないのか、心もち、涼しいような気もして、快かった。 「──しかし、あの若者、どうしてあんな風に?」  私が何気なく訊《き》くと、八代充子は、 「駐車場のせいなんです」  と答え、「それに、私にも責任はあります」  と付け加えた。 「駐車場のせい? どういう意味なんです?」 「それは──」  言いかけて、八代充子は言葉を切り、「お話しすると長くなりますし、エレベーターが来ましたわ」  ちょうど扉がガラガラと開いて、どうぞと促す。 「あなたは?」 「私はここで失礼いたします」  八代充子は閉じる扉の外で頭を下げた。  ──人のいない事務所を横目に見て、会議室へ入って行くと、ちょうど話は一区切りついていて、珍しくアイスコーヒーとケーキが出されているところだった。 「やあ、先生、どうも夜分、恐れ入ります」  大きな声で挨《あい》拶《さつ》したのは、ここの営業部長の神《かん》崎《ざき》という、営業マンの見本のような、至ってソツのない男である 。「ちょうど、今、一息入れていたところでして。先生のご意見を伺わないと話が進まんな、と言っていたんですよ」  見え透いたお世辞も、こうまくしたてられるとご愛敬で、ついこっちも不機嫌を忘れて席につく。  会議には、私の他に三人の顧問、それに社員、十人ほどが出席していた。 「ま、お暑いでしょう。ともかく冷たいものでも召し上って──」  私はアイスコーヒーを一口飲んで、ホッと息をついた。息抜きの雑談が途切れて、何となく静かになっている。 「そういえば」  私は何気なく言った。「駐車場の入口で、何だか若い男に、下は満車だから引き返せと言われましたよ。ところが下へ行ってみるとガラガラでね。皆さんも──」  突然、会議室のドアの所でガシャンと派手な音がした。会社の女子事務員が、手にしていた盆を取り落として、アイスコーヒーのグラスが床に砕けたのだった。──だが、奇妙だったのは、その女の子が、真っ青になって、今にも気を失いそうに見えたことだった。 「先生……」  と神崎が言った。私は神崎を見て、さらに面食らった。いつも愛想のいい笑みを絶やしたことのない男が、こわばったような表情で、じっとこっちを見つめているのだ。 「何です? どうかしたんですか?」  と、私は訊《き》いた。 「先生、その若い男というのは……」 「中田とかいいましたかね」  神崎が息を呑《の》んだ。ドアの所にいた女の子が、キャーッと叫んで、駆け出して行ってしまった。私は当惑して、 「どうしたんです、一体? まるで幽霊にでも会ったみたいに──」 「それは先生ですよ」  と神崎が言った。 「──何ですって?」 「先生が幽霊に会われたんです」  私はポカンとして神崎を見た。彼の表情は真剣そのものだ。 「その中田という男はですね」  と神崎は言った。「三年前に死んだのですよ」  重苦しい空気が、一同を支配した。 「その事情を聞かせて下さい」  と私は言った。神崎の言葉を、なぜか一笑に付す気にはなれなかった。 「はあ……」  神崎はしばらくためらっている様子だったが、やがて思い切ったように口を開いた。 「分りました。彼の名は──」 午前九時 「中田君!」  八代充子の鋭い声に、中田要《よう》二《じ》はぎくりとした。 「はい」  弾《はじ》かれたように立ち上って、急いで八代充子の机の前へ駆けつける。──また、俺《おれ》は何かへまをやったのかしら? 「今日は第三金曜日よ。分ってるわね」  八代充子は、顔も上げずに言った。 「はい。定例の顧問会議です」  と中田は言った。 「やっと憶《おぼ》えてくれたわね」  八代充子は皮肉な笑みを浮かべた。「やることは分ってるわね?」 「はい」 「結構よ。今度こそ、一つの落ちもないようにね」 「分りました」  中田の声は段々低くなって行った。 「あなたの『一つ忘れ病』も、いい加減に全快してほしいわ」  中田は何とも言いようがなかった。八代充子は、 「じゃ、支度にかかって」  と言うと、すぐに他の部下へ向って、話しかけていた。  中田は、そっと冷汗を拭《ふ》いてから席に戻った。ミスをやったわけではなかったと知って、救われた思いだったが、八代充子の棘《とげ》のある言い方には、いつもながら、胃の痛むのを感じた。 「まあ、言われたって仕方ないんだけどな……」  席へ座って、ともかくお茶を一杯飲むと、中田はそう呟《つぶや》いた。  実際、自分でもいやになるのだから、他人がいやになるのは当然だろう。〈一つ忘れ病〉と八代充子が呼んだ通り、会社にとって一番大切な会議である定例顧問会議の準備を、中田は入社以来もう一年近く、毎月一回くり返しやって来たのだが、手とり足とり教えてもらった最初の二か月はともかく、一人に任せられて以来、必ず何か一つの──時には二つの──大切な準備を忘れるのだった。  一度は会議の資料をコピー会社へ出すのを忘れ、会議前の一時間、女子社員が総出でコピーして急場をしのいだことがある。  また会議が夕方から、夕食時間を挟んで行われるために、他の会議室に、仕出しの夕食を用意するのだが、その注文を忘れて、近くの寿《す》司《し》屋へ走って間に合わせたこともある。  その他、会議室の机や椅《い》子《す》を規定の形に並べておくのを忘れ、顧問たちを廊下へ待たせておいて、汗だくで机を動かしたこと、会議の出欠の返信ハガキを、どこかへやってしまったこと、その他……。 「一通り全部やらないと気が済まないの?」  直接の上司である係長、八代充子がそう皮肉るのも、当然といえば当然のことであったかもしれない。  八代充子は、独身の職業女性の一典型とでも言うべき存在で、男性以上に仕事では厳しく、また有能でもあった。係長とはいえ、並の課長よりも、はるかに発言力があり、会社の幹部たちにも一目置かれていたのである。  そんな彼女から見れば、呑《の》み込みが悪く、忘れっぽく、不器用な中田は、何とも歯がゆい存在であったろう。事あるごとに、中田は八代充子の痛烈な皮肉にさらされることになったのだ。  ──この朝、中田は会議室の予約の確認のために、社の受付へ行った。 「おはよう」  と声をかけると、受付の野《の》島《じま》幸《ゆき》子《こ》が、 「おはよう」  と微笑《ほほえ》みを返した。まだ二十一歳になったばかりの若々しい可愛《かわい》い娘である。 「今日の顧問会議、会議室の使用届は出してあったよね」 「ええ、ちゃんと出てるわ」 「よかった」  中田は大げさにホッと息をついて見せて、「まだやってないのは、それぐらいだからなあ」 「私がちゃんと憶《おぼ》えてるわ。大丈夫」 「ありがとう」 「食事の予約も済んでるし……」  とノートを見てから、「また何か言われたの?」  と少し低い声で訊《き》く。中田は軽く肩をすくめた。 「いつもの朝の挨《あい》拶《さつ》さ」 「いやな人ね」  と幸子は顔をしかめた。「人に嫌味を言うのが唯一の楽しみだなんて、本当に悪趣味だわ」 「言われるようなことをするからいけないのさ」 「でも……」  と不満げな幸子をなだめるように、中田は言った。 「僕は別に気にしてないよ」 「あなたって、人がいいんだから……」  幸子はすねたように言った。中田と野島幸子とは、恋人同士とまではいかないまでも、そうなる可能性は充分に秘めている仲である。 「さて、会議室の机を並べ変えてくるかな」  と中田が行きかけると、 「午前中は他の会議よ」  と幸子が言った。 「ちぇっ、ついてないな。昼からじゃ、また忘れそうだよ」 「前の会議が終ったら知らせてあげる」 「ありがとう」  と中田は肯《うなず》いてみせた 。「君は優しいなあ」 「どういたしまして」  幸子がちょっと頬《ほお》を赤らめる 。「今の内にお金をもらっておいたほうがいいわよ」  お金とは、顧問に払う交通費や夕食代のことである。予《あらかじ》め経理から大体の金額を出しておいてもらい、後で精算することになっていた。 「そうするよ」 「──あ、それから、資料は? コピー、できて来てるの?」 「昨日出しておいたからね、今日の昼までには持って来るさ」  大量のコピーは、外の業者へ出しているのである。 「でも……」  幸子が不安げな表情になった。「今日はあそこお休みよ。掲示を見なかったの?」 「──何だって?」  中田の声は、囁《ささや》くように低くなっていた。そうだった! ちゃんと見ていたのだ。コピー会社が、今日から三日間、臨時休業するという掲示があった。 〈その間の会議等の資料などは、前々日までに出しておくこと〉……そう書いてあったのだ。中田も、はっきりとそれを読んだ。しかし、半月以上前に掲示されていたので、大して気にも止めなかった……。 「しまった!」  中田が真っ青になった。「──どうしよう」 「じゃ、原紙は向うへ行ったままなのね?」 「そうさ。まさか今日だとは……」  中田は頭を抱えた。 「誰《だれ》かいるかもしれないわ」  幸子は外線用の電話へ手をのばした。   「だめね」  幸子は受話器を戻した。「みんな社員旅行でしょう。自宅にもいないし……」  中田は受付の椅《い》子《す》に力なく座り込んでいた。 「全く……救い難いよ、僕は」 「元気出して」  幸子は中田の肩に手を置いた。 「しかし、どうしようもないじゃないか。コピー会社は閉めっきりになって、コピーの原紙はそこのロッカーか何かの中だ。どうやったって、今日の会議には間に合わないよ」  幸子は少し考え込んでいたが、やがて、 「私が何とかする」  と言った。 「何とか……って言っても……」 「コピー会社へ行ってみるわ。後は忍び込んででも──」 「そんなことして、捕まったら大変だよ!」 「冗談よ」  幸子は微笑《ほほえ》んだ 。「少なくとも管理人か誰《だれ》かいるはずだわ。事情を話して頼めば、きっと何とかなるわよ」 「そうかなあ」 「私、早退して行くわ」 「すまないね」 「いいのよ。あなたは落ち着き払ってらっしゃい。向うから電話するわ」  中田は幸子の手を握った。幸子は慌てて左右へ目をやった。 「見られたら困るわ」  と言いながら、手を引っ込めようともしなかった。「──きっと何とかするから、大丈夫よ」  中田は、幸子の言葉でいくらか元気づけられて席へ戻った。とたんに、 「中田君! どこへ行ってたの?」  と八代充子の声が飛んで来る。 「あ、あの──会議室のほうをちょっと──」 「午後からでいいわよ、そんなことは」 「はい」 「もう資料のコピーはできてる?」  中田はぐっと詰まった。しかし、「できているか」という八代充子の訊《き》き方からすると、彼女もコピー会社が休みだというのは忘れているようだ。自分が直接コピー会社と接触するわけではないから、気にもしないのかもしれない。 「昼にはできて来ます」  思い切って、中田はそう言った。 「そう。できて来たら一部私に」  八代充子はあっさりそう言った。 「分りました」  中田は胸を撫《な》で下ろした。 「それから、この表をね」  と八代充子は数字の並んだ、手書きの表を取り出して、「タイプで清書させておいてちょうだい。それもコピーしてね」 「分りました」  中田はそれを受け取って、「今日の会議に使うんですね」 「当り前のことを訊《き》かないで」  八代充子は苛々《いらいら》した声で言った。  中田はタイピストの席へと歩いて行った。何か仕事があるほうが、ありがたかった。少なくとも、差し当っては、不安を紛らわすことができるからだ。  ──幸子は巧くやってくれるだろうか? 午前十時三十分  前にも、幸子はコピー会社へお使いに行ったことがあったが、周囲の様子がすっかり変ってしまって、捜し当てるのに、大分手間取った。  蒸し暑い日で、大分古ぼけた貸ビルの前に立った時には、幸子は汗だくになっていた。  コピー会社はそのビルの三階に入っていたが、表から見た限りでは、人のいる気配は全くなかった。  文字の消えかかった扉を押して、ビルへ入って行くと、正面の受付で、仏頂面をした老人が、ジロリと幸子をにらんだ。──いやな予感がしたが、幸子は精一杯愛想よく微笑《ほほえ》んで、 「失礼します」  と声をかけた。 「何?」  老人は面倒くさそうに唸《うな》った。 「三階のコピー会社に用があって──」 「休みだよ」 「それは存じてるんですけど」 「三日間休みだよ」 「ええ、分ってます」 「じゃ何だっていうんだね?」 「実はあそこにいつもコピーを頼んでいるんですけど、今預けてある書類が急に必要になって……」 「休みだから仕方ないよ」 「事務所を開けていただけませんでしょうか?」 「だめだね」  老人は即座に首を振った。 「何とかお願いします。それがないと困るんです」 「こっちだって、留守の事務所に他人を入れたらクビだよ。そっちより、よほど困ったことになる」 「そんなことはありません。何ならそばについていて下さっても──」 「だめだね」  幸子は手を握りしめた。──一瞬、この年寄りを殴り倒して、鍵《かぎ》を盗もうか、という考えが、本当に頭をかすめた。  馬鹿なことを考えないで! 幸子は頭を振った。 「お願いします。それを急いで持って帰らないと、大変なんです」 「気の毒だが諦《あきら》めなさい」  老人はそう言うと、新聞を眺め始めた。 「お願いです。怪しい者じゃありません。経営コンサルタントの会社で──」  幸子はバッグから身分証明書を出して差し出したが、老人は一向に見ようともしない。 「最近はビル荒しが多くてね」  老人は新聞を見たまま、言った。 「でも、私は──」  幸子は言葉を切った。そしてバッグから財布を出し、中から一万円札を一枚抜き出して、 「ご迷惑は分りますけど、何とか……」  と差し出した。老人はジロリと札を見て、それから幸子を見た。 「そんな真似《まね》をしてもだめだよ」  逆効果だったようだ。老人は幸子を冷ややかな目で見つめた。 「クビになりゃ、わしは行く所がないんだ。帰ってくれ!」  ──もう、老人の考えを変えさせることはできそうにない。幸子は、力なく札を財布へ戻した。 「失礼しました」  失望と、腹立たしさ、そして中田へこのことを知らせる時の辛《つら》さを思って、重い足取りで、幸子はビルを出た。 「何とかしなきゃ」  表に立って、幸子は呟《つぶや》いた。  しかし、どうすればいいだろう? あの老人がトイレに立った隙《すき》にでも、三階へ上ることはできるかもしれないが、鍵《かぎ》を開けることはできそうにない。  いずれにしても、捕まれば不法侵入だ。そこまでして……。だが、中田のことを思うと、それくらいの危険は辞さない、という気になっていた。  非常階段から入れないかしら、と幸子は思った。──しかし、夜中ならともかく、今は昼日中だ。ビルの他の階では仕事をしているのだし、非常階段など上って行けば、妙に思われるに決っている。  幸子はいつしか流れた汗をそっと拭《ぬぐ》った。汗ではなく、涙かもしれないと思った。  このまま帰るわけにはいかない! 何とかして……何とか……。  ビルから、あの老人が出て来た。 「そこにいたのか」  老人は、ちょっと照れくさそうに笑っている。幸子は、胸の鼓動が早くなるのを覚えた。 午後零時五分 「はい」  幸子が、コピーの束を、テーブルに置いた。中田は頭を下げた。 「ありがとう」 「やめてよ」  幸子は笑って、「さ、わきへやっておかないと、濡《ぬ》れるわ」  二人はあまり会社の連中の来ない、レストランで待ち合わせたのだった。 「大変だったろう」 「全然」  と幸子は首を振った。「コピー会社のほうで会議の日付を見て気をきかせたのね。コピーして、ビルの受付へ預けておいてくれたのよ。もし取りに来たら渡してくれって」 「助かったよ」 「今度から、まめに掲示を見て、メモしておくのよ」 「分った。もうこりごりだよ」  中田は頭をかいた。「悪かったなあ、君には。早退までさせて」 「いいのよ。これからデパートでもぶらつくから」 「ともかくこのお昼はおごるから」 「無理しないで」 「せめて、それぐらいさせろよ。男のプライドってものがあるんだ」  幸子は思わず笑った。 「はいはい。じゃ、ごちそうになります」  ──食事をしながら、幸子は、 「もう忘れたことはない?」  と訊《き》いた。 「大丈夫。今月こそは完《かん》璧《ぺき》さ」  中田が力強く肯《うなず》いた。  他の客が、ウェイターへ声をかけているのが耳に入って来た。 「ここは専用駐車場はないのかね?」 「はい、申し訳ございません。この辺は、駐車場が足りませんので──」  中田はナイフとフォークを皿へ置いた。 「駐車場だ!」 「え?」 「駐車場を取っておかなきゃ。忘れてたよ」 「まあ。よかったわね、思い出して」 「うん」 「車で来る人、いるの?」 「ほら、村《むら》木《き》先生さ」 「ああ、あのうるさい人」 「そうなんだ。あの先生、車を置く所がないと、えらく機嫌悪くって。一台分、スペースを確保しておかなきゃ」 「大丈夫よ。今からなら、まだ余裕あるわ」 「そうだね」  中田はホッとした様子で、「やれやれ、また一つ忘れるところだった」  とニヤリと笑った。  中田は幸子と別れて、会社へ戻ると、コピーの束を机に置き、一部を八代充子の机に置いた。  時計を見ると、まだ十二時四十分だった。昼休みは二十分ある。駐車場のほうは一時になってから訊けばいいだろう。 「コーヒーでも飲んで来るか」  もう一度ビルを出ると、中田は向いの喫茶店に入った。同僚の顔もちらほら見える。できるだけ目立たない奥の席に座った。  コーヒーを注文して、店の新聞をめくっていると、誰《だれ》かが向いの席に座った。 「座ってもいい?」  八代充子だった。 「ど、どうぞ」  中田は慌てて言った。──畜生、休み時間だっていうのに! 「コピーはどうした?」  と八代充子が訊《き》いた。 「え、ええ。さっき出来て来ました。一部机に置いてあります」 「そう。ありがとう」  ──それきり八代充子は口をきかずに、コーヒーを頼んで、それが来るまで、まるで眠ったように目を閉じていた。  やれやれ、この女、一体仕事を忘れるなんてことあるのかな、と中田は思った。寝る時も、仕事の夢しか見ないんじゃないか……。 「さっき、野島さんと一緒だったわね」  急に八代充子が言い出した。 「は?」 「彼女に取りに行かせたの?」  中田は、顔から血の気がひくのが分った。 「──コピー会社が休みだってことを、私が忘れてるとでも思ったの? あなたが昨日コピーを出しているのを見たから、電話して、受付へ預けておいてくれと言っておいたのよ」  中田は黙って目を伏せた。 「あなたが、いつそれに気付くかと思って、様子を見ていたの。──私はね、あなたが失敗するのは仕方ないと思うわ。人には能力っていうものがあるんだから。でも、忘れたら自分でそれを何とかしなさい。女の子に早退までさせて。それでも男なの?」  中田は青白い顔で、じっとうなだれているばかりだった。 「素直さだけがあなたの取り柄だと思ってたのに、がっかりよ」  八代充子はコーヒーをゆっくりと飲みほした。「もう忘れていることはない?」 「ありません……」  中田は蚊の鳴くような声で言った。 「じゃ、先に行くわ」  八代充子は伝票を手にして、「ここは私が払っておくから、いいわよ」  と言い残して、出て行った。  中田は、しばし放心したように座っていた。  目の前でコーヒーがさめて行く。分っていながら、どうしても手がのびないのだ。 「駐車場……」  と中田は呟《つぶや》いた。 午後一時 「今日は満車だよ」  ビルの管理会社の係員は、あっさりと言った。中田は、 「でも……」  と言ったきり言葉が続かなかった。 「いつもなら、こんなことはないんだがね。二階で何だか会合があるんだとかで、今空いてる所も、夜まで全部予約済みだよ」 「そんな……。どうしても一台分だけいるんですよ。一台でいいんだ」 「そう言われても、順番だからね」  中田は急に体中の力が抜けてしまうような気がした。なぜだ? なぜ、俺《おれ》は何もかもついてないんだ? 「──おい、大丈夫か?」  係員は、中田がよろけたのにびっくりして言った。中田は黙って肯《うなず》いた。  足を引きずるようにして引き返して行く中田を見て、係員はいささか同情したらしい。 「おい。──じゃ、5番の所を見て来な。あそこはたいてい午前中しか置いてないから」  中田は振り向いた。 「誰《だれ》です、借りてるのは?」 「三階の法律事務所の先生だよ」  中田は駐車場へと入って行った。  静かだった。──電話も鳴らないし、怒鳴る声も聞こえない。  中田は、ちょっとの間、ここへ降りて来た目的を忘れて、その孤独な静寂に浸って立っていた。──ここが、上と同じビルの中だなんて、信じられないな、と思った。  車も、みんな忠犬ハチ公のように、じっと身じろぎもせずに、主の戻って来るのを、待っている。  ああ、ここが俺の仕事場だったら、と中田は思った。こんな静かで、人の姿がなくて、上役の目も、同僚の嘲《あざけ》りも、女の子たちの軽《けい》蔑《べつ》の視線も、感じないですむ世界が、俺の生きる場所だったら……。  中田は、我に返った。 「ぐずぐずしちゃいられないんだ……」  自分に言い聞かせるように、そう呟《つぶや》くと、5番のスペースを見に行った。──車はなかった。  管理会社へ戻って、係員にそのことを言うと、 「それじゃ大丈夫だろう。昼《ひる》頃《ごろ》出ると、もう大体戻っちゃ来ないんだ」  と肯《うなず》いた。 「じゃ、お願いします」 「分った。取っといてやるよ」  中田は救われた思いで、大きく息をついた。 「中田君」  席へ戻ると、八代充子が声をかけて来た。 「はい」 「村木先生は車でおみえよ。駐車場は大丈夫?」 「はい、取ってあります」 「そう、それならいいわ」  中田は、八代充子の言葉に、かすかに失望の響きを聞き取ったような気がした。それは考えすぎかもしれないが、席に座る時、中田の胸は、ささやかな勝利感で満たされていた。  ──我ながら、つまらないことに、と思っても、その感情は確かに胸を熱くしていたのである。 午後二時三十分  会議は四時から始まる。そろそろ支度をしておこうか、と中田は時計を見て思った。  会議室へ行って、前の会議で汚れた灰皿を片付け、机の並べ方を変えていると、 「電話ですよ」  と交換手の女の子が顔を出して、「幸子さんから」  と冷やかすような言い方をした。 「席で取ります? それともここで?」 「こっちへ回して」 「はい」  中田は苦笑しながら、会議室の電話が鳴るのを待った。 「──あ、中田さん?」 「うん。さっきはありがとう」 「どう、準備は?」 「今、会議室の机を動かしているところだよ」 「じゃ、順調なのね。よかった」 「心配かけちゃって、悪いね」 「そんなこと……」  幸子の言葉は低くなって消えた。 「今、どこにいるんだい?」 「デパート。──中田さんのおかげで、空《す》いたデパートで買物ができるわ」 「そう。人がいないっていうのはいいもんだからね。さっき地下の駐車場へ行って来たんだ。誰《だれ》もいなくて、静かだった。あそこにずっと一人でいたいと思ったよ」  どうしてこんなことをしゃべるのだろう、と中田は自分でも不思議だった。 「あなたは……お勤めに向いてないんだわ」 「そうかもしれないね」  と中田は思わず微笑《ほほえ》みながら言った。 「今、一人なの?」 「そうだよ」 「会議室にいるのね」 「うん。何だい?」 「私、中田さんが好きなの」  中田はじっと黙ったまま、受話器を握りしめていた。 「──もしもし」 「うん」 「怒ってるの?」 「いいや。でも……本気なのかい?」 「もちろんよ」 「嬉《うれ》しいよ」 「よかったわ。──ホッとした」 「そうかい?」 「ええ。じゃ、あんまり邪魔しちゃ悪いから、またね」 「明日だろ?」 「そうね。また明日」  ──電話が切れた。中田は、しばらく、受話器を持ったまま、ぼんやりと突っ立っていた……。  席へ戻ろうとすると、交換手の女の子が、 「中田さん」  と呼びかけた。「さっき村木先生からお電話があって、駐車場を頼むって」 「うん、大丈夫。取ってあるから」  全く、しつこいんだから、と中田は呟《つぶや》きながら席へ戻った。 「さて、資料を揃《そろ》えて、と……」  ふと、机の上のメモに気付いた。誰の字か分らなかった。 〈駐車場の係からTEL。5番はふさがったとのこと〉 午後二時五十分 「いや、気の毒だがねえ」  係員は、どうしようもないといった様子で肩をすくめた。 「でも……大丈夫だと言ったじゃありませんか」 「そう言われても、俺《おれ》にゃどうしようもないんだよ」 「じゃ、車がまた戻って来たわけですね」 「いや、そうじゃないらしいんだ」 「というと?」 「俺もよくは知らないがね、何だか若い娘がスポーツカーで来ていれちまったんだよ」 「そんな……。断ってくれなかったんですか?」 「いちいちここに停《とま》って行くわけじゃないからね。それにあの事務所の客かもしれないし……」  中田は管理会社を出ると、地下の駐車場への階段を駆け下りた。  5番のスペースには、赤い、小型のスポーツカーが駐車してあった。中田は車の運転はできなかったが、これが有名なイタリア製のスポーツカーだというぐらいのことは分った。  きっと四、五百万はするのだろう。彼の一年分の給料の倍にもなる。  中田は車の中を覗《のぞ》き込んだ。若い娘の持物らしい、本やらバッグ、サングラスなどがシートに置いてある。こんな車を乗り回すような娘が、このビルにどんな用があるのだろう?  中田が車の傍《そば》に立っていると、 「何してんのよ?」  と女の声がした。振り向くと、派手な色に髪を染めた、若い娘が立っている。服が同じ赤でなくても、この車の持主らしいことは分った。 「あなたの車ですか」  と中田は訊《き》いた。 「そうよ。何の用?」  娘は突っかかるような訊き方をした。 「僕はこのビルの四階に入ってる会社の社員ですけど」 「へえ。何か盗もうとしてたのかと思った」 「違いますよ」  と、中田は慌てて言った。「もう出るんですか?」 「どうしようと大きなお世話よ」 「この場所を借りたいんです。会社へ来るお客さんの車に、どうしても駐車スペースがいるんで」 「ここはパパの所よ」  するとこれが法律家の娘か! 「よく分ってるんですが、他の空きは全部予約でふさがっていて……。ぜひ、ここが空いたら使わせてもらいたいんです」 「へえ。──パパに断ったの?」 「いえ。それは……。でも、大体午後はお使いにならないようなので。何ならお願いに行きます」 「パパ、いないわよ。これから近所で落ち合うの」 「じゃ、ぜひ貸して下さい! お願いします、今日だけなんです」  中田はくり返し頭を下げた。  急に、娘が、かん高い声で笑い出した。 「やめてよ……笑いすぎてお腹《なか》が痛くなるじゃないの!」  中田はムッとした。 「笑いごとじゃありません。僕にとっては大問題なんです」 「あらそう」  娘は愉快そうに、「じゃ、ここを借りられないと、クビになるとでもいうの?」 「それぐらい大切なんです。いや、本当にそうなるかもしれません」 「へえ、面白いわね」  娘はからかうように、「決めたわ」  と言うと、駐車場の出口のほうへ歩き出した。 「待って下さい! 車を──」 「歩いて行くことにしたの。すぐ近くですもの」 「そんな……」 「車はずっと置いとくわ。指一本でも触れたら……。パパは法律の専門家なのよ。分ってるでしょうね?」 「そんなひどいこと!──わざと人を困らせて面白いのか!」  カッとして中田は娘の腕をつかんだ。 「放してよ!」  娘は中田の手を振り払うと、「もう一度そんなことしたら、暴行罪で訴えてやるわよ。それなら確実にクビでしょうからね」  とにらみつけた。  中田は、呆《ぼう》然《ぜん》と、娘が出て行くのを見送っていた。 午後三時十分 「そんなこと言ったってだめだよ」  二階は、ある法人組織の事務所で、ほんの十人ばかりの人間が、何やら膨大な資料や文献の保管などに当っているらしかった。 「一台分だけです。何とかなりませんか」  中田は頭を下げた。 「こっちは先に予約したんだ。どうしても必要だというんなら、君のほうが先に予約しとくべきだろう」 「それは分っています。でも、ここはいつも午後から夕方には満車になったことなんかなかったので……」 「運が悪かったね。他を当ってごらん」  担当の男は、取りつく島もなかった。 「他にも当ってみました。でもみんな今入れてある車は明日まで動かさないと言うんです」 「ふん。でもそれはこっちの知ったことじゃないぜ」 「あの……そちらで予約して、まだ空いてる所が三つぐらいあるようですけど」 「ああ、あれもすぐ埋るよ。残念だけどね」 「どなたか、おいでにならない人とか──」 「君もしつこいね」  相手は顔をしかめた。「一人、遅れてみえるという連絡はあったが、全員揃《そろ》うのは間違いないんだ。諦《あきら》めるんだな」  突き放されて、中田は一言もなく、また地下へと階段を降りて行った。  ちょうど、車が一台入って来るところで、空いているスペースは二つ──いや、一つになった。上にいる間に一つは埋ってしまったらしい。  ただ一つ残った7番というスペースの前に、中田は立った。  たったこれだけの幅、これっぽっちの奥行の空間のために、頭を下げ、駆け回っている自分が、何とも惨めだった。しかし、これが〈仕事〉というものなのだ。──無関係な人間が見ると、馬鹿げた、どうでもいいようなことに、力を尽して、それで月給をもらっているのだ。 「上の準備だ……」  中田は力なく呟《つぶや》くと、エレベーターのほうへと、重い足取りで向った。 「準備は?」  八代充子が訊《き》いた。 「終りました」  と中田は答えた。一つを除いて、とは言えなかった。 「そう。じゃ、私は会議室のほうへ行ってるから」 「分りました」 「中田君、あなた下へ行ってて」 「下ですか?」 「駐車場で村木先生を待っていてちょうだい。あの方は出迎えがないとご機嫌を損じるから」 「はい……」 「失礼のないようにね」 「分りました」  中田は、幸子と話したい、と思った。幸子なら、きっと慰めてくれる。何か、いい方法を考えてくれるかもしれない……。  しかし、幸子だって、駐車場の車をどかしてしまうことはできない。  中田は腕時計を見た。 午後三時四十分  駐車場は、相変らず、静かだった。  車たちも、何の変りもなく、それぞれの場所におさまっている。──7番は、まだ埋っていなかった。  しかし、そんなことは、何の気休めにもならない。万に一つ、その二階の客が、結局来ずじまいになる可能性もないではなかったが、村木の車が先に着いたとしても、このスペースへ入れるわけにはいかないのだ。  それとも……黙って入れさせてしまおうか?  村木の車はもう来る頃《ころ》だ。先に入ってしまえばこっちのものだ。早い者勝ち。それでいけないわけがあるか?  無茶な理屈をこじつけて、中田は、そのスペースをじっと見つめていたが、やがて、急いでエレベーターのほうへと駆け出した。  会社へ戻ると、机からマジックインキを出し、コピー用原紙のつづりの裏表紙の厚紙を切り取って、そこに、〈満車〉と大きな字で書いた。  これをあの駐車場の入口へ出しておけば、たとえ二階の客が来ても、引き返してしまうだろう。こっちはそばで見ていて、村木の車が来たら、中へ案内すればいい。  中田はエレベーターで一階へ降りると、駐車場への降り口の所に、〈満車〉と書いた厚紙を、セロテープで貼《は》りつけた。  これでいい。──二階の客が何だ。先約が何だ。俺《おれ》はどうしても一台分のスペースがいるんだ!  我知らず、額に汗をかいていた。そっとハンカチで拭《ぬぐ》っていると、 「何してるんだ」  と背後から声をかけられ、ギクリとして振り向いた。──二階の、さっき中田が会った男が立っていた。 「その札はなんだ? こっちのお客はまだ来てないんだぞ。うちの分が空いてるはずだ」  中田は何も言わなかった。相手が、ちゃんと察しているのは分っていたからだ。 「妙なことされちゃ困るぜ」  男は、〈満車〉の札をむしり取ると、二つに裂いた。「そっちもどやされるのかもしれねえが、俺《おれ》だってそうだ。諦《あきら》めろよ、いい加減に」  中田は、放り出された厚紙をゆっくり拾い上げた。男は、 「もううちのお客はみえるはずさ。五分もすりゃ着くと電話があったばかりだ。気の毒だな」  と言い捨てて、行ってしまった。  中田は、車の降りる斜面を、駐車場へと降りて行った。 午後三時五十分  駐車場は静かだった。  中田は、自分の足音の反響に、耳を澄ましながら、ただ、一人になりたかった。  どこかへ行ってしまいたい。駐車場の予約だの、コピーだの、伝票だののない所へ、行きたい、と思った。  もう、何がどうなってもいい。車のスペースがあろうとなかろうと、それが一体何だろう? そんなことが、どうしてそんなに大切なんだ?  下らない。何もかも、下らない!  中田は、一台分の、空いたスペース7番の前に来た。──中田は、その中央に座り込んだ。 「どうだ。これで満車だ」  声に出して呟《つぶや》いてみて、急におかしくなって笑い出した。声が、びっくりするほど大きくなる。まるで豪傑の高笑いかと思うほどだった。  何か、自分が偉くなったような気がする。ただ、声が反響するというだけで、そんな風に思えてしまうのだ。  そうだ。あの八代充子だって、上役だ、係長だと思うから怖いのだ。上役というメガホンで、何でもない声が大きく聞こえるのだ。  何だ。ただの、平凡な女じゃないか。美人でもない、もてるわけでもない。優しくもない。優しさなら、幸子のほうが、ずっとずっと上だ。  そうだとも。幸子に比べれば、八代充子なんて、女じゃない。あんな奴《やつ》が……一体どうして怖かったんだろう?  怒るなら怒れ。怒鳴ればいい。好きなだけ皮肉を言えばいいんだ。──もう俺は何も怖くないぞ!  ──駐車場の入口のほうで、車のエンジンの音がした。  中田はそろそろと立ち上った。来たのだ。誰《だれ》だろう? 二階の客か? それとも村木だろうか?  中田は現実に引き戻されていた。──青ざめて、入口のほうをじっと見つめた。村木の車なら見《み》憶《おぼ》えがある。  車が姿を見せた。 「違う……」  来るな、と中田は思った。畜生! 来るな! 満車だ!  ある考えが、中田の頭に閃《ひらめ》いた。  そうだ。あの車が事故を起こせば……。誰《だれ》かをはねるかどうかすれば、のんびり駐車してはいられないはずだ。  入れるもんか。ここへは入れるもんか。  中田は隣の車の陰に身を潜めた。──入って来た車は、空いたスペースを探しているように、ゆっくりと駐車場の中を進んで来た。  ほんのちょっと、軽くぶつかるだけでいい。大げさにわめき立ててやる。車で病院へ運んでくれ、と言えば、向うは断るまい。  これだ! これでスペースを確保できるぞ! 中田は、車が目の前へさしかかった時、飛び出した。同時に車は中田のほうへとカーブを切っていた。 午後四時十五分  八代充子は会議室から出て来た。受付に、幸子の代りに座っていた女の子へ、 「中田君は?」  と訊《き》いた。 「さあ……」 「村木先生をご案内するように言ってあるんだけど。──駐車場へ行って見てちょうだい」 「はい」  と立ち上りかけた時、誰かが受付のほうへやって来た。 「あの、八代さんって方を……」 「私ですが」 「あなたですか。──私、二階の事務所の者ですが……」 「何のご用でしょう」 「今、下の駐車場で……」  男は言い淀《よど》んだ 。「おたくの若い社員が……」 「中田君ですね。何か失礼をいたしましたか?」 「彼、死にましたよ」  八代充子は一瞬、当惑の面持ちになった。男は、中田が駐車スペースを都合してくれと頼みに来たことを説明した。 「──で、うちの最後の客の車の前へ飛び出したんですね。どういうつもりだったのか……。運悪く、車が思いがけない方向へカーブを切っていたので、まともにぶつかりまして……ドライバーが、また免許取りたての人でしてね。慌ててブレーキでなく、アクセルを踏んだらしいんです。で、そのまま彼を押し倒して──」 「分りました」  八代充子は肯《うなず》いた 。「わざわざどうも。ご迷惑をおかけしました」 「いや……」  男はため息をついた。「こっちもつい、意地になっちまったもんですからね……。気の毒なことをしましたよ。救急車が来た時にはもう虫の息で。──でも、うわごとのようにくり返してましてね 。『駐車場は取ってあります。八代さん』って……」  男が戻って行くと、八代充子は、呆《ぼう》然《ぜん》としている受付の女の子へ、 「早く、課長さんへ知らせて!」  と鋭い声で言った。 「は、はい!」  と女の子が飛び上った。そこへ、 「何だか表が騒がしいね」  と声がして、当の村木がやって来た。 「先生。──お車はどうなさいました?」  でっぷり太った村木はニヤリと笑って、 「うん、少しやせようと思ってな。電車で来た。ちょっと遅れたな。ま、いいだろう。もう始まってるのかね?」 「はい」  八代充子は言った。「ご案内します」  神崎が口を閉じても、しばし、口をきく者もなかった。 「──悲しい話ですね」  と私は言った。 「たかが駐車場一つのために……」  他の顧問の一人が首を振った。「信じられないような話だね」 「ですが、サラリーマンというのはそんなものかもしれませんよ」  と私は言った。  神崎がまた口を開いた。 「悲劇はそれだけじゃ終らなかったんです」 「すると……」 「その晩、八代充子が首を吊《つ》って死んだのですよ」  そうか。中田という男の幽霊と一緒にいたのだから、当然あの女も……。 「じゃ、責任を感じて?」 「死後、彼女の日記が見つかりましてね」  と神崎は言った。「そこには毎日、中田への想《おも》いが綿々とつづってあったそうですよ」 「中田への想い?」 「ええ。一《ひと》目《め》惚《ぼ》れ同然に恋してしまったらしいですね。でも、それをどう表していいか分らなかった……」 「それで、わざと辛《つら》く当ったわけか。──何となく分りますね」  私は肯《うなず》いた 。「──中田という青年の恋人はどうしました?」 「野島幸子ですか? ええ、やはりショックでしばらく寝込みましてね。その後、会社を辞めましたよ。確か一年くらい前に、結婚したとか聞きましたが」 「それは良かった」  私は、救われたような気がした。  会議を終え、車で来ていた他の顧問たちと一緒に駐車場へ降りると、当然のことながら、もう八代充子と、中田の姿も、そこにはなかった。 「妙な話でしたね」  と他の顧問が言った。 「何となく薄気味が悪いな。早々に退散しましょう」 「そうですね」  口々に別れを告げ、各自の車へ乗り込む。  なぜあの二人の幽霊が、私の前へ現れたのだろうか。私の車は7番のスペースに駐車してあったのだ。彼らには、私がここへ車を置くことが、分っていたのではないだろうか。  命をかけてまで譲るまいとしたスペースに私のような部外者の車を置いてほしくない。中田はそう思ったのかもしれない。  ゆっくりと車を出しながら、私はこの次はここへは電車で来ようと思った。  出口へ向って、斜面を上って行く時、バックミラーに、チラリと、車を見送っている二つの影を見たのは、気のせいだったのだろうか……。 怪 物 1  石室《いしむろ》家の電話が、深夜に鳴った。  夜といっても、十一時ごろなら、夫の石室和《かず》己《み》の仕事の関係でかかって来ることもある。妻の佐《さ》和《わ》子《こ》も、今はカルチャースクールに通っていて、夫の知らない付合いが広くなっていたから、その連絡ということもあった。  そして、娘の和《かず》実《み》は十五歳、中学三年生で、そろそろ夜中の長電話の傾向も出て来ていた。  しかし、深夜二時となると──これは普通ではない。  やはり、目を覚まして出るのは妻の佐和子だ。夫は、起きているのかもしれないが、フーッ、スーッと鼻息を強調している(ように、佐和子には聞こえる )。  和実? 起きるはずがない。  地震で家が潰《つぶ》れたって起きない、と自認しているくらい、一《いつ》旦《たん》寝たら、途中で起すのは至難のわざである。  ルルル。──ルルル。  電話は廊下で鳴り続けていた。  佐和子は、ため息をつきながら、ベッドから出て、スリッパをはき、寝室を出た。 「──はい」  間違いか、いたずらだったら、怒鳴りつけてやる、という気分で電話に出る。  少し、向うは黙っていた。それから、おずおずとした声が、 「石室……さんのお宅ですか」  と、聞こえて来た。  女の子の声。誰《だれ》だろう? 「はい、そうですけど、どなた?」 「あの……小《お》栗《ぐり》祥《さち》子《こ》です」  やっと、佐和子は、小学校からよく知っている和実の友人の声を聞き分けた。  しかし、いつもとは全く違う声だ。あの明るくて、のびやかな声が、まるで雨に濡《ぬ》れた惨めなむく犬みたいに、縮んで震えているように聞こえた。 「祥子ちゃん! どうしたの、こんな時間に?」 「すみません……。あの──他に行く所がなくて」 「え?」 「今から──そっちへ行っていいですか」  佐和子は、どうやらこれはただごとではない、と気付いた。──しかし、和実はぐっすり眠っている。  起しても、この電話に出て、まともに話をするのは無理だろう。 「祥子ちゃん、今どこにいるの?」 「駅の前です」 「K駅の? よく来られたわね!──いいわ。でも、もうバスないし……。そこで待ってて。迎えに行ってあげる」 「歩きますから」 「だめだめ。途中、寂しいから。ね、駅の入口の辺り、明るいでしょ。そこで待ってて」  K駅は、終電以後はタクシーなど捕まえられない。佐和子は、祥子にちゃんと待ってて、と念を押してから、電話を切ると、寝室へ戻って、夫を叩《たた》き起すことにした。  むろん、石室和己も、すぐには起きなかったが、小栗祥子のことは昔からよく知っているし、お互い、一人っ子で女の子。夜道を一人で歩かせるわけにいかないという点では、文句も言えなかった。  目をこすりながら、パジャマを脱ぎ、ジーパンとセーターという格好になる。 「はい、車のキー」 「ああ、──駅の前だな」 「すぐ分ると思うわ」 「和実は?」 「帰るまでに起しとく」  石室は肯《うなず》いて、欠伸《あくび》しながら、階下へ下りて行った。 「──家出か。向うの家に連絡しなくていいのか?」 「事情を聞いてから」 「分った」  石室は玄関から外へ出て、夜気の冷たさに首をすぼめた。雨が降ったらしく、空気が湿って、下も濡《ぬ》れている。  ──佐和子は夫を送り出すと、急いで二階へ戻った。  これからが大仕事だ。和実の目を覚まさせるには、忍耐力が必要とされるのである。  佐和子は、娘の部屋のドアを、勢いよく開けた。 「すみません」  やっと、祥子の頬《ほお》に赤みが戻って来る。  かなり長い時間、駅の近くで、迷っていたのだ。終電でK駅へ来たとして、十二時半には着いている。一時間半も、この肌寒さの中、ブレザー姿で立っていたことになるのだ。 「──さあ、あったかい内に飲んで」  インスタントだが、熱いスープを出してやると、祥子はおいしそうに飲んだ。 「やあ、祥子」  やっと目が覚めた様子の和実が入って来た。 「和実、よく起きられたね」  祥子は、何度もここへ泊りに来て、和実の寝起きの悪さを承知している。  しかし、ともかく、和実相手に冗談が言えるほど、祥子も元気をとり戻していたわけだ。 「どうしたの?」  と、和実がソファに座る。 「うん……。ちょっと」 「お家《うち》で心配してらっしゃるわ」  と、佐和子が気になっていることを言った。 「ね? 泊ってっても構わないから、一応、お宅へ連絡しておいた方が。──祥子ちゃん、電話に出ることないわ。おばさんが説明してあげるから。電話かけてもいいでしょう?」  祥子は、意外なことに、 「別にいいんですけど……」  と、どうでもいい、という様子を見せた。  普通、家出といえば、親とケンカした挙句のことである。心配させてやりたい、という気持で家出して来るのだから、知らせるのをいやがるだろうと佐和子は思っていたのだ。 「でも──」  と、祥子は続けて、 「それどころじゃないかもしれない」 「それどころじゃない、って?」 「お父さんとお母さん、別れるかどうかってもめてるから。──私が出て来たの、気が付いてないかもしれない」 「まあ……」  佐和子は、当惑した。  祥子の両親、小栗定《さだ》治《はる》と百合《ゆり》江《え》とも、古いお付合いである。技術者の夫は忙しいが、休みの日にはよく家族で出かけて、至ってうまく行っているように見えた。 「そう……。大変ね。でも、やっぱり心配なさってると思うわ」 「いいですよ、電話しても」 「じゃ、かけて来るわ。明日、学校は?」 「分りません」 「そうね」  佐和子はソファから立ち上って、居間を出て行った。  祥子と和実が残る。もちろん石室和己は、車で祥子を連れて来ると、すぐに眠ってしまった。 「──手紙が来てさ」  と、祥子が言った。 「手紙?」 「ほら──何ていうんだっけ、差出人の名前のない……」 「匿名っていうんだよ」 「そうだ。──お母さんの所にね、その手紙が……。お父さんに女の人がいます、って書いてあった」  祥子はスープを飲み干した。 「──おいしい!」 「見たの、その手紙」 「うん。ワープロで打ってあった。会社のオペレーターで、大学出たての可愛《かわい》い子で……。お母さん、帰って来たお父さんに、その手紙、突きつけた」 「それで、お父さん、何だって?」 「読んだら真青になってさ。あれじゃ、本当です、って言ったのと同じ」 「嘘《うそ》だ」 「お母さんが泣いて食ってかかってさ。──お父さん、もうオロオロするだけ」  祥子は顔をしかめた。 「見てるのいやで、冷蔵庫から食べるもん出して、かじりながら二階へ逃げちゃった」 「それからどうした?」  と、和実は身をのり出した。 「ずーっと、それきり二人で……。大体は黙りこくってて、お母さん、グスグス泣いてるし、お父さんは『だから、もう終ったことだって言ってるだろう』って……。それ聞くと、またお母さん、カッとなって、 『だからって、何もなかったってことにはできないわ』って食ってかかるの。──そのくり返し」  和実は黙って肯《うなず》いた。 「夜中になっても、その状態で、もういやんなって、出て来ちゃった。でも、きっとショックだったんだね。お父さんが凄《すご》く真面目《まじめ》にやってる、って信じてたから、お母さん」  祥子は、息をついて、頬《ほお》杖《づえ》をつくと、 「あんな手紙、誰《だれ》が書くんだろ? 知らなきゃ、お母さんだって、幸せだったのにさ。でも──騙《だま》されてたわけだから、やっぱり不幸だったのかなあ」 「分んないね」  と、和実は言った。 「子供じゃ、分んないよ」 「そうだよね」  と、祥子は肯いた。 「無理に分ることもないか……」 「ね、もう寝る? それともお風《ふ》呂《ろ》、入ってから?」 「いいかなあ、こんな時間に」 「構わないよ」 「じゃ──入ろうかな、体、冷えちゃってるし」 「風邪ひくといけないからね。じゃ、今タオルとか、出すから」 「ごめんね、和実」  和実は黙って微笑《ほほえ》むと、首を振った。  和実が二階へ上って行くと、母が電話で話していた。 「ええ、それはねえ。──よく分りますわ。──本当にね。──いえいえ、うちはちっとも構わないんですよ」  どうやら、長い話になりそうだ。  たぶん、祥子のお母さんのグチを聞いてるんだろう、と和実は思った。──娘のことはともかく、今は家庭がめちゃくちゃになるかどうか、という瀬戸際なんだ。  和実は、自分の部屋へ入った。  寝相がいいとは言えない和実のために、ダブルベッドが入れてあり、友だちが泊るときは一緒に寝られる。  和実は、洋服ダンスを開けて、バスタオルやパジャマを出した。いつも用意のいい祥子のことだ。ちゃんと持って来ているかもしれないが。  和実は部屋を出ようとして、 「あ、そうだ」  もちろん、祥子が目にして、気付くはずはないけど……。でも、念のためってことがある。  和実は、机の上にゴチャゴチャと積んである雑誌の中から、女性週刊誌を抜き出して、パラパラめくった。──確か、これだったと思うけど……。そう、これだ、これだ。 〈OLたちの不倫術公開!〉  こんなもん、誰が喜んで読むんだろう? これを読んで、 「真似《まね》してみよう」  なんて物好き、いるのかしら。  記事を見たとき、和実はそう思ったものだ。そして──もちろん読んでみた。  コンピューターのオペレーターの女の子、上司との不倫。  ちょうど祥子のお父さんも、こんな関係の仕事してたんだっけ。  そう思い付いたのが、きっかけだった。  和実はワープロを持っている。手書きの文字じゃ、祥子に一目でばれちゃうけど、ワープロなら分りゃしない。  本当に──本当に何の気なしに出した、 「いたずら」の手紙だ。  まさか、祥子のお父さんが、本当にオペレーターの女の子と浮気してるなんて……。  でも、もちろん今さら、 「あの手紙、私がいたずらで出したの」  なんて、言えやしない。  まあ、いいや。──結局、本人が浮気していたのがいけないんだしね。そうでしょ? 何もなきゃ、笑って、手紙を破って捨てりゃいいことだ。  それに──たぶん、祥子の両親は別れたりしないだろう。石室家に比べても、小栗家はかなり裕福である。浮気はしても、祥子のお父さんは沢山稼いでいて、祥子も中学三年生にしてはブランド物のバッグなんか持ってる。  たぶん、そういう暮しを捨ててまで、祥子のお母さんは旦《だん》那《な》さんと別れたりしないだろう。  和実は、その女性週刊誌を、屑《くず》かごの奥の方へ突っ込んだ。そして、タオルとパジャマをかかえて、部屋を出る。 「──そうですよねえ。ご主人も分ってらっしゃるんでしょうけど……」  お母さん、まだ電話に出ている。──あの分じゃ、当分話が終りそうもないね。  和実は、居間へと下りて行く。  実際、自分が「匿名の手紙」を出したことなど、和実は大したことだと思っていなかったのである……。 2  それは全くの誤解だった。  ──お昼休み、和実は、お弁当を食べながら、友だちから借りた小説を読んでいた。  和実は本が好きで、友だちが漫画しか読まないのに比べると、小さいころから、ずいぶん本を読んで来た。  そのせいか、文章を書くのも得意である。  中学二年生のときには、 「作文」の時間というのがあって、みんな原稿用紙、二、三枚を埋めるのに四苦八苦していたものだが、和実はさっさと書き終えて、涼しい顔をしていられた。  これは、まあ珍しいことで、和実は全体的に、あまり成績のいい方ではないので、唯一、優越感を味わえる時間でもあった。  三年生になって、 「作文」の時間がなくなったことは、寂しかった。  ──今、読んでいる本は、友だちが途中まで読んで投げ出した小説だ。 「暗くてやだ、こんなの」  というわけだったが──和実には面白かった。  でも、やっぱり不倫の話で──こんなに多いんだろうか、本当に?──独身教師に憧《あこが》れの心を抱く女子高校生の話。  女の子が、えらく暗くて、太ってて、誰《だれ》にも相手にされないが、でも心はやさしい、というパターン。──少々「暗め」という印象なのは、そのせいだろう。  そのとき、和実はちょうど、その女子高生が必死の思いで書いたラブレターを、想《おも》う相手の教師に渡そうとして、その教師が、クラス一の優等生、かつ美少女の女の子と二人で歩いているのを見てしまう、というくだりを読んでいた。  教室のドアが開くと、 「石室!──石室!」  凄《すご》い声だったので、却《かえ》って自分が呼ばれたとは、すぐには思わなかった。  本から顔を上げてポカンとしていると、歴史の教師、三《み》田《た》が顔を真赤にして教室を見回している。 「石室! どこだ!」  何だろう? 私?  みんながこっちを振り向いて、和実はそろそろと立ち上った。 「おい、石室! お前だな!」  え?──何のことか、全く分らず、和実は返事もできない。  三田は、大《おお》股《また》に和実の席までやって来ると、 「さっき、資料を取りに行ったのは、お前だな!」 「はい……」  そりゃ当然だ。三田に言われて、授業中、史料室へ取りに行ったのである。 「そのとき、土器を落としたな」  ドキ?──和実は、それが何のことなのか、すぐには分らなかった。 「あれは、博物館から借り出した、貴重な物なんだぞ! 粉々にして、どうする気だ!」  三田は真面目《まじめ》な教師で、三十歳になったところだ。人気がある、というタイプではないが、そう嫌われてもいない。  女子校では、 「面白い先生」が一番好かれるが、 「真面目な先生」も少しはいてくれないと困る、という気持が、みんなにある。  三田はその「良心」の部分だった。  しかし、こんなに三田が怒っているのは、初めてのことだ。誰《だれ》しも唖《あ》然《ぜん》としている。 「石室! 何とか言ったらどうだ!」  何とか言えったって……。覚えのないことである。  それに三田が怒れば怒るほど、和実の方は冷めて来て、へえ、 「青筋立てて怒る」って本当なんだ、などと考えたりしていた。 「何だ、その顔は!」  三田は、怒りのあまり、抑えがきかなくなっていたらしい。次の瞬間、三田の平手が和実の頬《ほお》を力一杯打っていた。  和実は倒れそうになって、隣の子の机につかまった。焼けつく痛みに、目がくらんだ。 「廊下に出ろ!」  三田が、和実の腕をつかんで、引張って行く。──みんな、唖然として、その光景を眺めていた。 「──私じゃありません」  やっと、和実は言った。目に涙をためて。 「嘘《うそ》をつくな! あそこには、お前しか入ってないんだ!」  三田は、息づかいまで荒くなっていた。 「お前がやったんだ。そうだろう」 「違います」 「そうか」  三田は和実の肩をつかんで、ぐっと下へ押した。膝《ひざ》を打って、和実はアッと声を上げた。 「正座しろ! ここに今日の授業が終るまで正座してろ! 分ったか!」 「三田先生、何ごとです?」  と、年長の教師がびっくりしてやって来たが、 「口を出さないで下さい!」  三田に、凄《すご》い剣幕で言われると、口をつぐんで行ってしまった。 「──おい、ちゃんと正座してろ」  廊下は、冷たいリノリウムの床である。和実は、そこに正座した。 「自分でやったと認めるか?」  和実は、もう答えなかった。悔しさと怒りとで、涙がこみ上げて、何か口をきけばワッと泣いてしまうだろうと分っていた。 「──認めないんだな」  と、三田は言った。 「よし、いつまでもそうやって座ってろ!」  三田は大《おお》股《また》に行ってしまった。  クラスの子が、何人か顔を出す。──昼休み、外や他の教室へ行っていた子が戻って来る。  和実は、ギュッと唇をかんで、必死で涙のこぼれるのをこらえていた。膝が痛む。しかし、痛みのことを考えていると、通りかかる生徒や先生の視線を、忘れることができた。  ──この日、五時限目の終りまで、和実は廊下で正座を続けさせられていた。  授業中の、シンと静まり返った廊下。  正座していると、足がしびれ切って、痛みさえ感じなくなる。  和実は、じっと正面の壁をにらみつけていた。──もう涙は出ない。  和実は、 「理不尽」ということを、人生で初めて、体験していたのだ……。  パタパタ。──サンダルの足音がして、三田がやって来た。 「もういい」  と、三田はぶっきらぼうに言った。 「教室へ戻れ」  和実は、黙っていた。三田の方を見ようともしなかった。  三田は、 「これから気を付けろよ」  と言うと、戻って行く。  三田の姿が見えなくなると、和実は立ち上ろうとして、倒れた。とても立てるものではなかった。  膝《ひざ》やふくらはぎに、言いようのない苦痛が走って、和実は廊下を転げ回った。声を押し殺して泣いた。  ──このことを、和実は家に帰って何も言わなかった。  次の日になって、和実の耳に、 「事実」が届いた。  問題の土器を落として壊したのは、三田が顧問をしている「歴史研究会」の会長で、優等生でもある女の子だった。  三田の怒りの凄《すさ》まじさに、名乗り出るのが怖くて、それでも、五時限目にやっと三田の所へ行って話したのだ。  三田は、お気に入りのその生徒を殴るわけにもいかず、黙って帰した。  ──和実は、歴史の授業のとき、三田が自分と目が合うのを避けている、と感じた。  許さない。許すもんか。  和実にとって、 「恨み」や「怒り」は、長く飼って、育てていけるものだったのだ……。 〈自分でも、どうしたらいいのか分かりません。  先生への気持を、隠しておこうと思うと、苦しくて、胸が張り裂けそうになります。  先生には奥さんもあるし、こんな気持を抱いてはいけないことも、分っています。でも、先生を愛している、この気持は本物です。  先生。お願いです。一度だけでいい。二人だけで会って下さい。私は、ご迷惑をかけるつもりはありません。  ですから、会って、私の話を聞いて下さい。  それだけ、本当にそれだけです。  それで、私は先生のことを諦《あきら》めます。  土曜日の午後四時に、体育館の用具室で、先生を待っています。  来て下さいね。お願いです。  先生が来てくれなかったら、私、死んでしまいます。  この手紙、細かく裂いて、捨てて下さい。 先生を愛する    一生徒より〉  「──飲む?」  和実は、冷たい缶ジュースを、木《きの》下《した》充《みつ》子《こ》の方に差し出した。 「いいの? ありがとう。──喉《のど》かわくよね」  木下充子はひどい汗っかきである。 「最後の時間が体育って、最悪」  と、和実は言った。 「せっかく土曜日で、早く帰れるのにね」 「ねえ。──少し早く終ってくれないと。──ありがとう。全部飲んじゃった」 「いいよ。私、もう飲んでたから」  と、和実は言った。  女子校とはいいながら、バレーボールは結構ハードな運動である。  もともと、運動の苦手な和実は、できるだけ動かないようにしている。  ピーッと笛が鳴った。 「──やっと終りだ」  と、木下充子が、伸びをした。 「でも片付けなきゃ」 「そうか。いやだなあ、面倒くさい」  ──体育当番の日。今日は、和実と木下充子。 「じゃ、今日はこれで終る! 当番、ネットとボールを片付けろ」  もう、六十近い体育教師で、自分じゃほとんど動かない。終ると、さっさと引き上げてしまうが、当人は汗もかいていない。  女の子たちは、汗をかいて、そのまま帰れないから、シャワー室は満員になる。もちろん、それもワーワーキャーキャーやってて、楽しいのだが。 「──ネット、外すね」  と、和実が言った。  バレーコートのネットを丸めてしまうのは結構面倒である。充子と二人で、せっせと動いて──。 「充子、どうしたの?」 「うん……。めまいがして」 「大丈夫?」 「大丈夫よ。──これ、用具室に入れよう」 「うん」  ネットを運び込んで、和実が用具室を出ようとすると、充子は、顔を両手で覆って、しゃがみ込んでしまった。 「充子……。気分悪いの?」 「何だか……立ってらんない」 「ほら、そこの──マットレスの上に座ったら?──ボール片付けたら、保健室に連れてったげる。貧血よ、きっと」 「うん……。悪いね、和実」  充子は、十枚近く重ねてあるマットレスの上に、横になった。  和実はバレーボールを入れた大きなかごを引きずって来た。 「充子。──充子」  充子は、マットレスの上で眠っていた。  和実は、ボールの入ったかごを決った位置に戻すと、用具室を出て、静かに戸を閉めた……。 「もしもし……」  和実は、低く、ささやくような声で言った。 「もしもし? どちら様ですか?」 「手紙を拾ったんです」 「え?」 「体育館の用具室で、先生が生徒とこっそり会ってますよ」 「何ですって? あなたは?」 「手紙を拾ったので、知らせただけです」  和実は、電話を切った。  ──三田は行っただろうか?  もし、あの手紙を真に受けて、行ったとしたら。  充子は、まだ眠っているはずだ。缶ジュースには、睡眠薬が充分に入っていた。  充子は可愛《かわい》い子である。中学生とは思えないくらい、体つきも成熟していて、白い太《ふと》腿《もも》のつややかなまぶしさは、和実が見ても、色っぽいな、と思う。  もし、三田が、手紙を書いたのは充子だと信じ込み、待っている間に眠り込んだのだと思ったら……。  そううまく行くだろうか?──分らなかった。  しかし、少なくとも和実が仕組んだことだとは、誰《だれ》も思うまい。手紙は、和実がペン習字のお手本の字を必死で真似《まね》て書いたものだ。  百枚近くも、やり直しただろうか。  ジュースの缶も、校外へ持って出て、捨てた。  もし、三田が疑いを持っても、あれからもう三か月たっている。まさか和実のやったこととは思うまい。  三か月。──和実にとっては、あの悔しさは、昨日のもののように、鮮やかに思い出せるのだ……。 「──ただいま」  家に帰って、和実は、台所へ入って行った。 「お母さん、おやつは?」 「何よ、小さな子供みたいに」  と、佐和子が苦笑する。  小さな子供が、あんな手紙を書くかね。  和実はそう思うと、つい笑ってしまった。 「何よ、一人で笑って。気持悪い」 「何でもない!」 「着がえてらっしゃい。少し夕ご飯作るの、手伝って」 「うん」  和実は、台所を出て、階段を駆け上って行った。 3  人は誰《だれ》でも、恋をする。  いつか。──それは、和実にも分っていた。  いや、本当は分っていなかったのかもしれない。  本で読み、映画で見て、そう思っていただけかもしれない。実際、和実は恋の何を知っていただろう?  ともかく、和実も恋をすることになったのである。十六歳。高校一年生の、秋だった。  相手は──何だか当り前すぎて気がひけるが──英語の家庭教師に来てくれた、大学の三年生。  一年浪人して、国立大に入ったので、二十二歳だった。意外なことに、二枚目じゃなかった。  自分では二枚目が好きだと思っていたのに、実際となると、分らないものである。  少しずんぐりしたスポーツマンタイプの体つきで、とても秀才には見えない。でも、教え方は、やさしく、ていねいで、和実にとってはいい「先生」だった。 「──ご苦労様です」  ドアが開いて、母の佐和子が顔を出す。 「一服なさって下さい」 「あ、どうも」  山《やま》上《がみ》は、頭を下げた。──山上敏《とし》郎《ろう》。和実が恋をした相手である。 「私、やるよ」  と、和実は母の手から盆を受け取った。 「スープ、熱いから、まだ」 「うん、分った」 「ちゃんと教えていただいてる?」 「当り前でしょ」  と、和実は言った。 「いや、よく分って来ましたよ。なあ」  と、山上が言った。 「だとよろしいんですけど」  と、母が笑って、 「じゃ、よろしく」  と出て行く。 「──これ、打っちゃうね」  と、和実は言った。 「うん。──いいなあ、ワープロが打てると。僕も友だちから、古いのをもらったんだけど、全然使わないで放ってある」  と、山上は言って笑った。  和実は、ワープロに向うと、今、やった英作文の例題を、手早く打って行った。アルファベット入力で、キーボードを見なくても打てる。  でも──このワープロで、中学生のとき、何を打ったか、先生は知らない。  そう、もうすんでしまったことだ。  祥子の所は結局、離婚してしまって、今、祥子は母親と二人で暮している。  高校はそのままエスカレーター式に進んだが、クラブも別で、祥子とはこのところ、あまり会うことがない。  三田先生は……。でも、あの手紙は、ワープロじゃなかったっけ。  あれからどうしただろう?  用具室で、三田は木下充子といるところを見付けられ、卒倒しそうなほど青くなったらしい。  充子は目を覚まして、でも怖くて動けなかったそうだ。三田は、充子を本当に抱こうとしていたのだった。  弁解の余地はなかった。充子の家族は、学校側の陳謝で、やっと告訴を思い止《とど》まったが、三田はもちろんクビになった。  奥さんとも別れ、教職には二度とつけないだろう。  しかし、和実は後悔していなかった。──私をあんなひどい目に遭わせたんだもの。当り前だわ。 「──やあ、こりゃおいしい」  スープと、熱いグラタンを、山上は旨《うま》そうに食べた。 「料理教室で習って来たもんの中じゃ、これが一番まとも」  と、和実は言った。 「後はひどいの。食べるのはこっちだもの。被害大きいわ」  山上は笑って、 「熱心なんだねえ、君のお母さんは」 「ヒマなだけ。──お父さんが札《さつ》幌《ぽろ》に行ってから」  父が札幌へ単身赴任して、もう半年になる。  何といっても、和実が高校へ進む大切な時期で、一家で動くわけにはいかなかった。  母は、時間ができたせいか(高校ではほとんどお弁当でなく、学校の食堂を利用する)、色々と習いごとに精を出し始めた。  今は週に三日、色々と通っている。いや四日かな?  和実にもよく分らなかった。何しろ、いつの間にやら、習っているものが、増えたり減ったりしているのである。 「──さて、始めようか」  と、軽い食事を終えて、山上は言った。 「はい」  お盆を片付けて、和実は、机に向った。  ──勉強が楽しい、なんて言ったら嘘《うそ》になるかもしれない。  でも、ともかく山上に喜んでほしくて、頑張っているのだ。山上の月謝は決して安くない。教える方としても、力が入っている。 「──その前置詞、気を付けて」  と、山上が言った。  同じことを、学校の先生に言われるとうんざりするのに、もっともっと話して! もっと声を聞いていたい。あなたの声を……。 「次のテスト、頑張ろうな」  と、山上が言って、 「はい!」  和実は、力強く肯《うなず》いたのだった。  ──それは、確かに母だった。  電車は、昼間だというのに、ずいぶん混《こ》んでいた。始発駅の関係もあるのだろう。  和実は、テストが終って、昼で帰るところだった。ドアのわきにもたれていると、眠くなって欠伸《あくび》が出る。  好きなロックグループのCDを予約してあったので、都心まで、このまま出ることにしていた。眠るのは、帰ってからでもいい。  目をこすって、ぼんやりと吊《つ》り広告を眺めていると、ふと目が、見慣れた横顔に止った。 「お母さん」  と、呟《つぶや》いて──でも、声をかけるには、離れすぎていた。  母のそばへ行こうと思うと、人をかき分けて行かなくてはならない。そこまでしなくてもいいだろう。  その内、母の方も気付くかもしれない。  そう思って、母の横顔を眺めていたが……。どことなく、母はいつもと違って見えた。  どこが、と言われても分らないが、確かに違う。何だか活《い》き活《い》きとして、楽しげなのである。  お母さん、お父さんが札幌へ行ってから、却《かえ》って若返ったみたい、と和実は思った。  そう。着る物も、若向きになったし、アクセサリー、バッグ、──どれもセンスが変って来ている。  和実も、そういう所へ目の行く年ごろになっていた。  電車が終点に着き、ホームへ出ると、和実は母が来るのを待った。母の通っているカルチャースクールは、こっちの出口だ。  ところが──人の間に、チラッと、母が反対側の出口へと歩いて行くのが見えた。  お母さん。──どこに行くんだろう?  どうでもいい、と思ったが、つい和実は母を追って、歩き出していた。  別に尾行するつもりではなかったのだが、母があんまり勢いよく歩いて行くので、和実は追いつけなかったのである。  そして、──ショッピング街の入口へ来て、フッと母の姿が消えてしまった。  和実はキョロキョロと左右を見回していたが、捜すといっても、広く、人も多い。諦《あきら》めた方が良さそうだ。  肩をすくめて、戻りかけると、誰《だれ》かが走って来て、危うくぶつかりそうになった。  危いなあ!──と振り向いて、面食らった。  山上先生? 今のは……。  そう。確かに、見《み》憶《おぼ》えのある上着。後ろ姿でも分る。向うはまるで気付かなかったようだが──。  見送っていると、山上は、喫茶店の中へ、飛び込むように入って行った。何だろう?  何も予想してはいなかった。  母を見かけ、山上を見かけても、何も考えはしなかった。  表から、ガラス越しに、喫茶店の中を覗《のぞ》いて、そこに母と山上が、同じテーブルについているのを見るまでは。  何してるんだろう。あんな所で……。  お母さん、山上先生と、何の話が?  話だけではなかった。──和実は、信じられないものを目にしたのだ。  テーブルの下で、母が山上の手を取り、握りしめているのを。山上を見る母の目。そして、紅潮した頬《ほお》。  和実は、足下の大地が崩れて行くような気がした。  どれくらい立っていたのだろう。──そんなに長かったはずはない。  母と山上は、一緒に店を出ると、歩いて行った。せかせかと。まるで、待ち切れない、とでもいうように。  二人がどこへ行くのか、何をしに行くのか。  分らないほど、和実も子供ではなかった。  ──結局、この日は、予約したCDを受け取らずに、和実は家へ帰ったのだった。  あの人だわ、たぶん。  和実は、文庫本からチラッと目を上げて、その若い女性が入って来るのを見ていた。  小柄で、地味ではあるが、可愛《かわい》い顔立ちの女性である。  十六歳の和実が「可愛い」なんて言ったら怒られるかもしれない。何しろ彼女は二十一歳で、もう働いているのだ。  広い喫茶店なので、彼女は途方にくれたように中を見回している。  ウェイトレスとぶつかりそうになって、仕方なく空いた席に座ったものの、落ちつかずに、客の出入りの度に、入口の方へ目をやっていた。  急ぐことはない。──和実は慣れていた。  急ぐことはない。手紙は、鞄《かばん》の中にある。  和実はしっかり、文庫本を章の区切りまで読んだ。  あの女性の名は、沢《さわ》田《だ》布《きぬ》子《こ》。  山上とは同郷の幼なじみで、 「恋人」のはずである。──その名前を聞いたのは、山上が英語の勉強に、と、英語の劇へ連れて行ってくれたとき。  大学での山上の友だちと会って、終ってから三人でお茶を飲んだ。  山上がトイレに立ったとき、和実は、その大学生に、 「山上さん、恋人いるんですか?」  と、訊《き》いてみた。 「ああ。幼なじみのね、沢田布子って子が──。もう働いてるんだよ。確かこの辺じゃないかな」  沢田布子は、その近くの東南アジア関係の貿易会社で働いている。そこまで、和実は訊き出していた。  後は、難しくない。家での勉強中、山上が席を立ったときに、山上の手帳を開けて、電話番号のメモに、沢田布子の勤め先の名前を見付けた。  ──今、沢田布子は、腕時計を見ている。  名前も言わない女の電話で、ここへ呼び出されて、それでもやって来ているのは、 「山上さんのことで、大切なお話が」  と言われたせいだ。  それだけ、沢田布子にとって、山上は大切な存在なのだろう。もう時間を二十分過ぎている。  そろそろいいかな。  和実は、席を立って、トイレへ行く途中の、公衆電話から、この店にかけた。 「──沢田布子さんを呼び出して下さい」  店の中に、 「沢田様。沢田布子様。お電話でございますので」  とアナウンスが流れる。  この店は仕事の打ち合せで使われることが多いので、こうして呼び出してくれるのである。  和実は、沢田布子が急いで席を立って、レジのカウンターへと歩いて行くのを見て、電話を切ると、店の中を足早に歩いて、沢田布子の席に、手紙をポンと置き、自分の席へ戻った。  ──沢田布子が不安げな表情で席に戻って来た。そして、座ろうとして、手紙を見付ける。  和実は、また文庫本を広げた。  沢田布子は、読んでいるはずだ。──自分の恋人が、年上の女と遊んでいるという「親切な匿名の手紙」を。  和実は、沢田布子の方を見なかった。本は面白かった。  章の終りまで読んで顔を上げると、もう沢田布子の姿は、席になかった。 4 「遅いわね、先生」  と、佐和子が言った。 「うん、そうだね」  和実は、時計に目をやった。 「ご病気かしら?──電話してみる?」 「よしなよ。連絡してくれるよ、先生の方から」 「そう。──そうね」  母の苛《いら》立《だ》ちが、和実には面白かった。  そう。確かに、山上は時間には正確で、こんなに遅れたことはない。変更があれば、ちゃんと電話をかけて来る。 「おかしいわね……」  と、母は心配そうだ。 「お母さんが生徒みたいだよ」  と、和実が言うと、母はドキッとした様子だった。 「そんなこと……。ね、何か軽く食べてる?」  和実は、答えずに、 「お父さん、今度いつ帰るって?」  と、言った。 「お父さん? さあ……。たぶん、大分先じゃない? どうして、そんなこと訊《き》くの」 「お母さん、寂しくないかな、と思って。一人で行って来てもいいよ、札幌に」 「何ですか」  と、母は、苦笑した。 「あんたがそんなこと心配しなくてもいいの」  そのとき、チャイムが鳴って、 「あ、やっとみえたわ」  と、母は立ち上った。  ──山上は、ひどく顔色が悪かった。 「先生、具合でも悪いの?」  と、和実が訊くと、山上はやっと笑顔を作って、 「いや、ちょっと風邪気味で。でも、大したことないんだ」  と、言った。 「まあ。ご連絡いただければ、お休みしていただいてもよろしかったのに」  と、母は言った。 「いや、起きてた方がいいんです。本当に大したことは……」  出されたコーヒーカップを持つ手は震えていた。  それでも、コーヒーを飲み終えるころには、少し落ちついて、 「じゃ、始めようか」  と、和実に向って言った。 「うん」  ──あの女の人と話して来たんだろう。だから、少し様子がおかしいんだ。 「よろしくお願いします」  と、母は、気にしながらも、山上と話せないのが、もどかしそうだった。  ──和実は、自分の部屋へ入ると、 「これ、この前の課題」  と、プリントを渡す。 「うん。──いい点じゃないか」  と、山上は肯《うなず》いた。 「この調子で頑張るんだぞ」 「はい」  勉強はいつも通りに進んだ。  山上は、いつも以上に熱心に教えているようだった。──私のためじゃない。お母さんのためなんだ。何もかも。  そう思うと、和実の心は凍りついた。母と山上が、密会している様子が目の前に浮んで来る。 「──どうかしたかい?」  と、山上が言った。 「集中できないようだね」 「ちょっと……疲れてて」  と、和実は言った。 「じゃ、少し早いけど、一息入れようか」 「はい」  部屋を出て、台所へ下りて行くと、母はまだ軽い食事を用意している最中だった。 「先に、飲物だけでもお持ちして」  と、母が言った。 「うん」  紅茶をのせたお盆を手に、二階へ上って行く。 「──今、用意してますから」  と、入って行くと、山上がワープロに向っていた。 「先生、打つんですか」 「いや、やっぱり無理だな」  と、山上は笑って、スイッチを切った。 「──ありがとう」  山上は、ゆっくりと紅茶を飲んで、息をつくと、少し間を置いて、言った。 「和実君」 「え?」 「悪いんだが……。君のこと、教えられるのは今日で最後になると思う」  和実は、ティーカップを持つ手を止めた。 「先生……」 「こんな風に途中で放り出すのは、無責任だと思うけどね。──すまないね」  山上は淡々とした口調で言った。 「いえ……」 「君はよく頑張った。この方法で、ずっと続けて行けば、もっと伸びるだろう」 「先生……。何か、あったんですか」  と、和実は訊《き》いた。 「まあね。──でも、もう何もかも終ったんだ。全部、すんだんだ」  山上は、カップの中の紅茶に映る自分の顔を、眺めているようだった。 「先生──」 「ちょっとね、遠くへ行かなきゃならないんだ」  と、山上は明るい調子になって、言った。 「急なことでね。まあ、こんなこともあるんだ、たまには」 「遠くって……どこへ?」 「さあ、よく分らない」  山上は、微笑《ほほえ》んだ。 「──和実君、君も大人になったら分るだろう。人間は、いくつになっても、迷ってるもんだってことが」 「迷う?」 「ああ、君から見れば、僕は大人で、もちろん、お父さんやお母さんはもっと大人だ。大人は、みんなしっかりした生活を持っていて、迷ったりしないで、真直《まつす》ぐに堂々と歩いてる。──君にはそう見えるだろう? だけどね、そうじゃないんだ。君の親ごさんくらいになっても──いや、もっともっと年齢《とし》をとっても、人は道に迷ったり、つい、立ち止って道草を食うことがあるのさ」  和実は、山上が何のことを言っているのか、よく分らなかった。  母のことを言っているのだろうか? それとも自分のことを?  ──ドアが開いた。  母が、少し青ざめた顔で、立っている。 「お母さん──」 「山上さん」  と、母が言った。 「あの……下に、お客様が」  客? どうしてここへ? 「そうですか」  山上は肯《うなず》いた。分っていたようだ。 「どうしましょう? あの──」 「行きます」  山上は、どこかふっ切れたような、明るい表情になっていた。  立ち上ると、和実の肩を、それまでにしたことのないやり方でつかんだ。 「じゃ、和実君」  母が、よろけるように、ドアにつかまる。  山上は部屋を出て行った。  母が、両手で顔を覆う。──何があったんだろう?  和実が何も訊《き》かない内に、母は、山上を追うように、下へ下りて行った。机の前で、和実は、ぼんやりと座っていた。  ふと──なぜ山上がワープロをいじっていたのだろう、と思った。  スイッチを入れてみる。カタカタと音がして──フロッピーの一ページ目が──。  和実の顔から血の気がひいた。 〈沢田布子様  お知らせすることがあります。  あなたと親しいお友だちの山上敏郎さんは──〉  沢田布子あての手紙だ。消去していなかった!  山上はこれを見たのだ。でも──どうして黙っていたのだろう?  和実は、急いで部屋を出ると、階段を駆け下りた。  玄関から、二人の男に挟まれるようにして、山上が出て行くところだった。 「先生!」  と呼ぶと、山上が振り返った。  和実は、見た。山上の手首に光っている手錠を。 「さあ」  と、促されて、山上は、和実の方へちょっと肯《うなず》いて見せると、出て行く。  ドアが閉った。  和実は、外で、車の音がして、すぐにサイレンが鳴り出し、それが遠ざかって行くのを聞いた。  ──和実が居間へ入って行くと、母が、真青になって、ソファに座っていた。寒そうに見える。 「お母さん……」 「先生はね──女の人を殺したの」  と、母は正面を見つめたままで、言った。 「どうして」 「恋人同士で……ずっと昔からお付合いしていて……。でも、先生にね、他に好きな人ができたのよ」  母の声は震えた。 「前からの恋人が、そのことを知って……。先生の所へ行って、ケンカになり、刃物を持ち出して……。先生は、その人を首を絞めて、殺してしまったの」 「そんな……」 「逃げればいいのにね。──逃げ出せば良かったのに。ここへ来て、ちゃんとあなたに英語を教えて……。捕まることは分ってたのね、きっと」  母は、体中から力が抜けたように、息を吐き出した。 「先生、言ったよ」 「──何て?」 「人間は、大人になっても、迷うことがあるんだよって」  母は、しばらく黙っていて、それから泣き出した。  見てはいけない。和実は、二階へと上って行った。  ワープロが、ブーンとかすかな音をたてている。  あの手紙。──あれが、沢田布子を殺したんだ。そして山上の人生を狂わせ、母の人生を……。  和実は、山上が座っていた椅《い》子《す》の上に手を当てた。かすかなぬくもりが、残っている。  自分の椅子に座ると、和実は、涙が溢《あふ》れて頬《ほお》を落ちて行くのを感じた。  そしてワープロのキーボードへ手を伸ばすと、ディスプレイに出ていた文字を消去した。 「やれやれ」  と、石室和己は首を振って、 「やっと、我が家へ戻って来たか」 「あなた、ご飯」 「ああ。──やっぱりいいな、我が家の食卓は」 「和実。早く食べて」 「うん」  和実が席につくと、 「またでかくなったな。それぐらいにしとけ」  と、父が言った。 「もう高三だよ。これ以上伸びないよ」 「そうか。しかし、母さんより大きいものな」 「そうでなきゃ困るわ」  と、母が言って笑う。  母の髪に、この一年ほど、急に白いものが目立ち始めたことを、和実は気付いている。  今は染めているので分らないが。  あの出来事以来、母は前ほど外へ出なくなった。  やっと、父が東京の本社へ戻って来て、今夜はその第一夜だ。 「何だか、当分はこっちが仮住いって感じだな」  と、父は笑っている。  父も、大分太った。外食のせいかもしれない。 「どうなんだ、和実、学校の方は」 「別に。──もう受験だしね」 「進めそうか、大学に」 「英語がね、とてもいいの」  と、母が代りに言った。 「たぶん内部の推薦で行けると思うわ」 「まだ分らないよ」  と、和実は言った。 「お父さん、もう動かない?」 「たぶんな」 「もう落ちついてほしいわね」  と、母が言った。 「──あ、電話」 「出るわ」  と、和実は立って行った。 「──石室さんのお宅ですか?」  と、女性の声。 「はい、そうです」 「あの──お嬢さんでいらっしゃいますか。札幌支社の者です」 「あ、どうも、お待ち下さい」  和実は、 「──お父さん! 会社の人」  と、呼んだ。  父が口をモグモグやりながら、やって来る。  受話器を渡して、ダイニングへ戻りかけて──。 「うん。──分ってるけどな。──少し待ってくれ。な、分ってくれよ」  父は、低い声でしゃべっている。  和実は席に戻った。 「どなたから?」  と、母が言った。 「札幌支社の人」 「そう」  でも──今の電話は、札幌からじゃない。あの女性の声のバックに、空港のアナウンスが流れていた。  ちゃんと、和実は聞いていたのである。 「──ごちそうさま」  和実が席を立つと、父が戻って来た。 「何だ。もう終ったのか」 「ダイエット中」  と和実は言って、 「部屋へ行ってるね」  と、二階へトントンと上って行く。  部屋へ入ると、和実は、机に向った。  父が──いや、父も同じだ。  分ってしまった。和実は、騙《だま》されるにはあまりに多くを知ってしまっていた。  人は迷うもの……。  そうだろうか?──真剣に迷う人間と、もともと迷いたがる人間とがいる。そうなんだ。  和実は、長く使わなかったワープロのスイッチを入れた。  眠りから覚め、記憶をよみがえらせた、その道具は、明るい螢光面のディスプレイを白く輝かせた。  待っている。──私が、ここに言葉を並ばせ、 〈手紙〉を作るのを、待っている。  和実は、その白い世界を見つめながら、微笑《ほほえ》んだ。  それは、古い親友にめぐり会ったときに見せる微笑のようにも見えた……。 善の研究 「なあ、お前」  山《やま》下《した》耕《こう》造《ぞう》は新聞を置いて老眼鏡を外しながら、妻の妙《たえ》子《こ》に声をかけた。 「何です、あなた?」  妙子は、年齢の割には少しも老いを感じさせない声をしていた。 「わしは最近つくづく思うんだがね……ああ、ありがとう……いや、お前の淹《い》れたお茶はどうしてこう旨《うま》いのかな。わしが自分で淹れると、苦過ぎるか、味がしないか、どちらかでね、一度もうまく行ったためしがない。全く不思議だな、うん……いや、何の話だったかな?」 「最近つくづく思うんだが、とおっしゃいましたよ」 「そうそう。いや実際、わしらは幸せすぎるほど幸せだ。そう思わんかね?」 「ええ、その通りですわ、あなた」  妙子は決して夫の言葉に反対したことがなかった。 「わしもお前も、もう七十の坂を越したが、どちらも特別大病に悩まされることもなく、申し分なく健康だ。仕事も順調に運んで、退職前に住宅の支払いも全部済ませることができたし、貯えと退職金で、余生を送るに充分な金もある。三人の子供はみんな何一つ問題を起こすこともなく育って、耕《こう》一《いち》は一流会社の部長、慎《しん》二《じ》は大学の教授、純《じゆん》子《こ》は弁護士のところへ嫁いで余裕ある生活をしている。五人の孫たちもみんないい子ばかりだ。みんな車で三十分とかからない所に住み、三日に一度はたいていどこかの孫が顔を出す。──まあ小遣いねだりということもあるだろうがね。しかし、子供にはうとまれ、構ってもらえず、死んでひと月も発見されないような老人がいるのを考えれば、わしらは本当に幸せだと思うよ」 「そうですわ。本当にその通りです」  と妙子が肯《うなず》く。 「で、わしはふっと考えたんだが……」  と耕造は言葉を切った。 「ええと……何だったかな……ふと考えたんだが……」  としばらく考え込んで、 「──そう、わしはこう思ったんだ。今までわしらは社会から幸福を受け取る一方だった。仕事にも子育てにも大した苦労や努力はしなかったのに、総《すべ》てが巧く行った。……わしらは人生に借りがあるような気がしてならんのだよ。何かお返しをしなくてはならんのじゃないかな。もらいっ放しでこのまま死んでしまったのでは、あまりに恩知らずということになりそうな気がするんだよ」 「そうですわね」 「わしらはむろん、大して能もない年寄りにすぎん。多少の金はあるといっても、慈善事業を始めるほどはあるわけではない。できることと言っては限られたものだが……しかし、力の及ぶ範囲で、何か人のためになることをしてはどうか、と思うんだがな」 「いいことですわ」  と妙子が肯いた。 「で、何をなさるんですの?」 「それはまだ今から考えるのさ」  そう言って、耕造は照れたように笑った。 「どうも、世のため、人のためなどと難しいことを考えるには、頭の巡りが遅くなって来ておるからな。ま、その内に何か思いついたらまたお前に相談をするよ。お前も、もし何か考えがあったら、聞かせてくれないか」 「分りましたわ」 「……いや、全くお前の淹《い》れたお茶は旨《うま》いな。どうしてこう違うのかな……」  耕造はゆっくりと茶をすすった。  その十日ほど後のことである。耕造は久しぶりに外出し、国電に乗った。大した用でもないから、孫の誰《だれ》かに頼んでもよかったのだが、耕造自身、たまの外出を楽しみにしていたし、適度な運動にもなるので、敢《あ》えて自分で出かけたのである。  帰りの電車は、まだラッシュアワー前なので混《こ》み合ってはいなかった。それでも席は一通り一杯で、立っている客がチラホラという所であった。  耕造は始発駅から乗ったので、悠々と座れて、ちょうど暖かい日和《ひより》でもあり、ついうつらうつらしていたのだが……。  耕造の席から少し離れた扉のわきに、セーラー服姿の少女が立っていた。十六、七というところだろうか。いや、今の少女は発育がいい。実際は十四、五なのかもしれない。清《せい》楚《そ》で、奥床しさを漂わせた、近《ちか》頃《ごろ》では珍しい、なかなかの美少女である。耕造はまるで名画でも鑑賞するような気分で、重そうな鞄《かばん》をさげて立っているその少女を眺めた。  そこへ、その男が乗り込んで来たのである。──たぶんまだ二十歳前後だろう。革ジャンパーに、細く足にはりつくようなズボン、胸を広くはだけた赤いシャツ、サングラス、雷にでも打たれたようなチリチリの頭髪。その若者は酔っているようだった。目の縁が赤くなっているのが、サングラスからはみ出して見えていたし、ポケットから顔を覗《のぞ》かせているのは、ウィスキーのポケットびんらしかった。  耕造はため息をついた。この若さで、一体どうしてこんなに自分を粗末にできるのだろう、と思った。全く馬鹿げた話である。働く歓びと充実感を自分から捨ててしまう人間など気が知れない。  耕造は若者から目をそらしかけて、はっとした。その若者が、あのセーラー服の少女の方へと近寄って行ったからだ。そして、少女に体をぴったりと押し付けるようにして、顔を寄せて何やら囁《ささや》きかけた。──耕造の耳にはその言葉は聞き取れなかったが、どうせけしからぬ誘いでもかけているのに違いない。少女の方は身をよじるようにして若者から離れようとするのだが、相手が彼女を隅へ押し込めたような格好で立っているので身動きが取れないのだった。少女は表情をこわばらせ、顔をそむけて、一切返事をすまいと決めたようだ。  耕造は苦々しい思いで、若者がしつこく少女にからむのを見ていた。周囲の乗客も明らかにその出来事に気付いてはいたが、チラチラと目を向けるだけで、誰《だれ》一人止めに入る者はいなかった。──少女が急に、 「やめて下さい!」  と叫んだ。相手が彼女の体に手を回して抱き寄せようとしたのだ。少女が身を振り離そうとするのを面白がって、若者は大声で笑い出した。反対側のドアの所に立っていた実直そうな中年のサラリーマンが、見かねて歩み寄ると、 「君、いい加減にしないか!」  と声をかけた。──よほど喧《けん》嘩《か》慣れしているのだろう、若者は酔っているとは思えない素早い動きで、振り向きざま、中年男の腹を殴りつけた。ウッとうめいたきり、男は体を深く折って、床へ倒れてしまった。  こうなると、もう周囲は震え上って顔をそむけてしまう。殴られた男は顔を歪《ゆが》めて呻《うめ》きながら、ようやく上体を起こしたものの、それ以上、立ち上ることもできない有様だった。  若者は再び勝ち誇ったような笑い声を上げると、真っ青になって震えている少女の方に向いた。 「いや!……いや!……」  少女が泣き出した。若者がスカートの裾《すそ》をまくり上げたのだ。耕造は、少女の白い腿《もも》が露《あら》わになるのを見ていた。もう少女は逆らうこともできない。ただ身を縮めるようにして、すすり泣いているばかりだ。その様子が相手を一層煽《あお》り立てる。容赦ない手が、少女の胸元を、スカートの中を這《は》い回る。電車の中には、ただ少女の泣き声と、若者の甲高い笑い声と、重苦しい沈黙だけが聞こえていた……。 「なあ、お前」  耕造は家へ帰るなり言った。 「ちょっと考えたことがあるんだが」 「何ですの、あなた?」 「この間、わしが言ったことを憶《おぼ》えているか? わしらは世の中へ何かお返しになることをしなくてはならんと話し合ったのを」 「ええ、憶えていますわ」  妙子は肯《うなず》いた。 「どうだろうな、たとえば世の中のためにならないものを取り除くというのも、世のために貢献したことになるだろうか?」 「それはそうだと思いますわ、あなた」 「いや、こんなことを言うのも、実は今日、電車の中でちょっとしたことがあってな……」  耕造は少女に卑《ひ》猥《わい》な行為を働いた若い男のことを妻に話して聞かせた。 「駅に着くと、その娘は泣きながら、転がるように逃げて行った。男の方は腹をかかえて笑っている。──それを誰《だれ》一人止めようともしなかったのだ」 「本当に情ない話ですこと」 「全くだ! わしがもう少し若ければ放ってはおかんのだが……」 「あなたがおけがでもなさったら、それだけではすまないのですから、もっと大変なことになりかねませんわ」 「わしもそう思ってこらえていたのだがね……。しかし何とも腹の立つ、歯がゆい思いだったよ。あの娘は、きっと、世の中には正義など存在しないのかと思っとるだろう」 「可哀《かわい》そうな娘さんですねえ」 「それで、ふと思い付いたのだよ」  と耕造は言った。 「その若い男を殺してやろうか、とね」  その若者が自分と同じ駅で降りるのを見て、初めて耕造の頭にその考えが浮かんだのだった。試みに彼の後を尾《つ》けてみることにした。駅前からバスなり何なりに乗って行ってしまえば、もう追いかけようもないのだから、諦《あきら》めよう、それが神意なのだろう。──耕造はそう思っていた。  若者は、駅を出ると、耕造の家とは反対の方角へと歩き出した。時折、ウィスキーのポケットびんをあおっていたせいか、いささか酔いが回ったらしい。足もとも頼りなげで、右へ左へ、よろめきながら歩いて行くので、老人の足でも、尾行するのはそう難しくなかった。  十分ほど歩いて、若者は、住宅街の一角、二階建のかなり立派な家へ入って行った。家の構えから見て、部長クラスの幹部のサラリーマンの家と思えた。二台分の広さがあるガレージには、今はその男のものらしい、毒々しい血のような色のスポーツカーだけが入っている。──どうやら小遣いには不自由しない放《ほう》蕩《とう》息子の類《たぐい》らしい。表札には〈篠《しの》塚《づか》〉とあった。 「どうだろうね?」  と耕造は言った。 「あんな奴《やつ》をのさばらせておくのは、正に害虫を育てるようなものだ。ああいう男は、きっとその内に人殺しか何か、取り返しのつかないことをやらかすに違いない。その時になって、奴を檻《おり》に閉じ込めたって、被害を受けた者の傷は決していやすことはできない。現にあの娘だって、今日の事件で測り知れないほど深く傷ついているに違いない……。どう思うね、お前は?」  妙子はやや考え込んでいる様子だったが、やがて微笑《ほほえ》んで、言った。 「あなたのお考えの通りだと思いますわ。ただ、ちょっと気になりますのは、そんな放蕩息子でも息子は息子です。親ごさんたちにとっては大切な一人息子なのかもしれません。その人を殺して、ご両親まで生きがいを失ってしまうようでは、やはり問題だと思いますわ。それにもう一つ。あなたは、いくらお元気とはいっても、もうお若くはないのですし、どうやってその若い男を殺すおつもりなのか……」 「お前の言うことはよく分る」  と耕造は肯《うなず》いた。 「人一人の命というのは、やはり重いものだ。その辺は充分に調べてから結論を出すよ。それから方法のことは心配しなくてもいい。ちょっとした考えがあるんだ」  耕造はそう言って、遠くを見るような目つきになった。 「わしも年齢《とし》だな……」  耕造は息をついて立ち止まった。一昨日、若者の後を尾《つ》けた時には、至って簡単な道順で、ちゃんと頭へ入れておいたつもりだったのだが、もう一度来てみて、もののみごとに道に迷ってしまったのだ。一《いつ》旦《たん》駅まで戻ろうかとも思ったが、駅への道も分らない。どこかで道を訊《き》こうにも、住宅ばかりが続いていて、店らしい店も見当らないと来ている。  あてもなく歩き続けるには、耕造はいささか疲れていた。──もうそろそろ日が暮れかかっている。夜になったらますます面倒だし、彼の帰りが遅いと妙子が心配するに違いない。いや今でも、そろそろ帰って来ていい時間なのに……と時計を見上げているだろう。  ともかく、今日のところは、篠塚という家を探すのはやめておこう。駅へ出て、家へ帰るのだ。そう急ぐことはない。  そう決めた時、道の向うから、二十五、六歳と思える背広姿の青年が歩いて来た。いささか早いが、仕事帰りの勤め人に違いない。上等な背広をきっちりと着こなし、靴も磨き上げられていて、手に黒いアタッシェケースを提げている。姿勢よく、大《おお》股《また》に歩いて来るさまは、耕造の目に、誠に爽《さわ》やかに映った。 「──ちょっと伺いますが」 「何でしょう?」  青年は少しも迷惑げな様子を見せずに足を止めた。 「この辺に篠塚さんというお宅はありませんかな? なかなか立派な構えの……」 「篠塚──ですか?」  青年はちょっと目を見開いて訊《き》き返すと、 「それは僕の家のことですか?」  今度は耕造の方が目を見張った。 「お宅ですって?」 「この辺に篠塚というのはうちだけですが……しかし、大して立派な家とは言えませんがね」  と青年は笑った。 「ともかくご案内しますよ。どんなご用ですか?」  耕造は返事に詰まった。まさかこんなことになろうとは予想できるはずもない! 「いや……実は……お宅に用、というわけではなくて……」  咄《とつ》嗟《さ》に、耕造は、あの家のすぐ前に小さな喫茶店があったのを思い出した。 「その前の喫茶店で友人と待ち合わせたので。ところが、店の名も場所も忘れてしまって向いのお宅の名だけ憶《おぼ》えているという……。年齢《とし》のせいですな。全く……」 「そうだったんですか」  青年は愉快そうに、 「店の名は〈ライラック〉というんです」 「ああ、そうそう。そんな名で……」 「どうぞ。こっちですよ」 「これはどうも。すみませんな」 「いえ、僕も帰るところですから」  どうやら似たような通りながら、一本違っていたらしい。細い抜け道を通ると、すぐに見憶えのある家の前に出た。 「どうも厄介をかけましたな」 「とんでもない、これぐらいのことで」  青年は快く微笑《ほほえ》んで会釈すると、家の中へ消えた。──耕造は頭を振った。きっと兄弟なのだろうが、何たる違いだ! 〈ライラック〉という喫茶店は客の姿もなく、はげ頭に腹の出た店主が一人、手持ちぶさたにしていた。 「いらっしゃい」 「ああ……すみませんがミルクを。コーヒーは眠れなくなるのでね」 「はいはい。温かいやつですね」  と店主は快く肯《うなず》いた。 「──篠塚さんの息子さんとご一緒でしたね。お知り合いで?」 「いや、ちょっと道を訊《き》いただけでね。しかし、気持のいい若者ですな」 「全くですよ」  店主はミルクの鍋《なべ》を火にかけながら言った。 「兄さんの方は本当にいい人なんだが、弟の方はあなた、どうしようもないぐうたらでね」 「ほう」 「あの兄さんの方は東大を出てお役所に入りましてね、将来は大物になると噂《うわさ》されているんですが、弟と来たら、それが高校も中退──というより問題を起こして退学処分になったんですな。それからはオートバイだ、スポーツカーだ、ディスコだと遊び惚《ほう》けて、毎日酔ってご帰還でしてね」 「それはそれは……」 「近所ではみんな言ってますよ。あの弟一人のためにあの家はだめになるってね」  耕造は黙って、店主の話に耳を傾けていた。情報は、探すまでもなく、向うから飛び込んで来た! 「あそこの父親は大学の教授なんですよ」 「そうですか! わしの次男も教授でしてな」  と思わず口を挟む。 「それならお分りでしょう? 弟の方が何か新聞種にでもなるような事件を引き起こせば、父親は教授じゃいられないでしょうし、兄さんの方だって、出世には大変な障害になるでしょうしねえ。全く、世の中、なかなか巧く行かんもんですな」  耕造は、この店主の言葉が判決だ、と思った。死刑宣告だ。 「それにね──」  店主は、ミルクのカップを耕造の目の前に置きながら、続けた。 「これは隣近所の連中の話なんですが、どうやらあのぐうたら息子、親に暴力を振うらしいですよ」 「暴力? 殴るとか、そういう?」 「ええ、それも父親だけでなく、母親まで殴るらしいです」 「何てことだ!」  さすがに耕造も唖《あ》然《ぜん》とした。 「よく夜中に母親の悲鳴らしいものが聞こえるそうですよ。止めようとするんでしょうね、兄弟の取っ組み合う音とか、ガラスや茶《ちや》碗《わん》の割れる音、そりゃ凄《すご》いもんだそうです」  耕造はミルクを飲むのも忘れていた。店主は続けて、 「私も時々、父親や母親が、目の周りにあざをこしらえているのを見かけますからね」 「何ともしようがないんですかね?」 「何とかする、ったって……。とても手に負えないんでしょう。いえ、こんなことをお話しして妙な奴《やつ》だと思われるでしょうが」 「いや、そんなことはないですよ」 「実はねえ……今朝も父親がこの店へみえましてね。朝、よく出がけにここでコーヒーを一杯飲んで行かれるんです。ところが今朝はまた目の周囲のあざがことの他ひどくて、私がコーヒーを運んで行ったのも、まるで目に入らない様子で……。そして呟《つぶや》いておられたんです。『あいつさえ死んでくれれば……』とね。私もさすがにゾッとしましたね」  その時、他の若い客が入って来た。店主は新しい客の方へと移って行く。耕造は初めてゆっくりとミルクをすすった。  さっきのが死刑宣告なら、今の話は、閉廷を宣する木《き》槌《づち》の音だな、と耕造は思った。   「まあ、ざっとこんなわけだよ」  耕造は妙子に言った。 「それでこんなに遅くなられたんですか。どうなさったのかと思って心配しましたよ」 「すまんすまん。しかし全く巧い具合に話が聞けたからな」 「そうですね」 「どうだい、お前、どう思うね? わしはやってもいいんじゃないかと思うんだが」 「ええ、そうですね。でも充分お気を付けて……」 「分っているよ」  耕造はゆっくりと茶を飲んで、肯《うなず》いた。 「お前の淹《い》れてくれるお茶は本当に旨《うま》いな」 「ちょっと、すみませんが……」  耕造が声をかけると、篠塚裕《ゆう》二《じ》は不審そうな顔で振り向いた。──この前と同じ革ジャンパーに細いズボン、サングラスといういでたちだ。 「ちょっと伺いますが、この辺に〈大福屋〉という店は……」 「大福屋?」 「さっきからこの辺を捜し回ってるんですがな……。さっぱり見つからなくて往生しております」 「ふーん」  と気のない様子で、 「知ってることは知ってるけどよ」 「そうですか! それは助かりました。ちょっとご案内していただけませんか?」 「俺《おれ》、急ぐんだよ」 「お忙しいところを申し訳ありませんが、そこを何とか……。あ、よろしければこれを」  と耕造は手にしていた紙袋を差し出す。これは、ちょっとした投資だったのだ。 「何だい?」 「もらい物のウィスキーでして、わしは日本酒しかやらんので持て余していたんですが、もしお好きなら……」 「ものは何だい」  と紙袋を覗《のぞ》き込んで、 「ジョニ黒じゃねえか!」 「何でもいいものなんだそうでございますが、年寄りにはさっぱりで」 「こいつをくれるのかい?──よし、案内してやらあ!」  篠塚裕二は上機嫌で言った。耕造はそっとほくそ笑んだ。  一週間通いつめて、やっとつかんだ機会である。駅からの道の途中で待ち受けていても、何しろ相手は風来坊だ。家へ帰らない日もあろうし、深夜になることもあるだろう。容易なことでは出会うことがない。──しかし、耕造は別に急がなかった。時間はある。焦ってしくじっては元も子もない。  あの喫茶店にも二度ほど顔を出し、店主の話を聞いた。兄の方は俊《しゆん》一《いち》、弟は裕二という名だと知った。聞く話、聞く話が、一段と耕造の決心を強めるばかりである。そして今、やっと決行の時は来た……。 「大福屋ってのは線路の向う側なんだぜ」  と裕二がいった。 「そうでしたか。それじゃ見つからないわけですな」  耕造はむろん大福屋という店はよく知っている。そこへ行くには踏切を渡らねばならない。それが耕造の狙《ねら》いである。 「そこを渡るんだ」  裕二は踏切の方へ下りる坂を歩いて行った。無人の、遮断機もない踏切だ。よく事故が起きるので、しばしば問題にされながら放置されていた。耕造は、わざと遅れがちに坂を下って行った。 「早く来いよ」 「どうも……年寄りは足が思うに任せませんので……」  警報器が鳴り出した。 「おや、電車が来るようですね」 「なに、大丈夫さ」  そう言いながら、裕二が線路のところまで歩いて行って、左右を見る。耕造はかがみこんで手ごろな石をつかみ取ると、裕二の背後へ歩み寄り、その後頭部を思い切り殴りつけた。──呆気ないほど簡単に、裕二は倒れて身動きしなくなった。  耕造はポカンと突っ立っていた。裕二はちょうど線路の上に寝そべるようにして倒れている。 「そうだ!」  電車が来る! 急いで逃げなくては。耕造は、電車が篠塚裕二の体をバラバラに切り刻むのを見たくはなかった。精一杯の足取りでさっき下りて来た坂を上って行った。  坂を上り切らない内に、その時が来た。轟《ごう》音《おん》が近づいて、警笛が鳴った。急ブレーキをかける凄《すさ》まじい金属の摩擦音。ガクン、ガクンという、骨の砕ける音が聞こえたような気もしたが、耕造は、気のせいに違いない、きっとそうだ、と自分へ言い聞かせた。  ──それだけだった。 「すんだよ」  家へ帰ると、耕造は急に疲れを覚えて畳に横になった。 「まあ、あなた、風邪をひきますよ。そんな所に。すんだ、って……」 「奴《やつ》は死んだよ。事故だな。あの踏切を知ってるだろう。無人踏切で、線路もカーブしていて事故が多い。──誰《だれ》も不思議には思わんさ」 「そうですか。お疲れでしょう」 「ああ、いささか疲れたな。お茶を淹《い》れてくれんか。お前のお茶が一番おいしい……」  耕造は満足気に目を閉じた。  耕造は篠塚裕二の葬式の様子を覗《のぞ》きに行った。──事件は完全に事故として片付いていた。裕二がジョニ黒のびんを抱えていたこともあって、酔ってつまずいたかどうかしたものだろうと推察されていたようだ。  葬儀はかなり内輪のものだった。耕造は、出棺を見ている人々の中に、喫茶店の店主を見つけて声をかけた。 「新聞で事故のことを読みましてな」 「いや、ひどいもんだったようですよ。ま、もっともこれでよかったんだ、って近所では言ってますがね」  とさすがに声を低めた。 「酔っていたとか」 「そうそう。天罰ですよ」  と店主は肯《うなず》いて見せた。 「どうせ生きてたって、ろくなことは──おや、出棺のようですね。ほう、ご両親と息子さんだ」  耕造は、両親がひどく気落ちした表情でやって来るのを見て、一瞬胸が痛んだ。母親はハンカチで目頭を拭《ぬぐ》っている。それは親として当然の感情だろう。どんな息子でも、子供に変りはない。しかし、内心ではホッとしているに違いない。──母親の横に、長男の俊一が寄り添っていた。少しも取り乱すことなく、毅《き》然《ぜん》としている姿は、耕造を感動させた。  あんないい息子がまだ残っているのだ。両親の悲しみも間もなく晴れよう。棺を見送りながら耕造はそう思った。 「お早うございます」  と妙子が言った。 「ああ、お早う。──いい日和だね。暑からず、寒からず。空気も乾いて、わしら老人には全くありがたい天気だな」 「本当ですわね、あなた」 「何かいいことがありそうだな、こんな日は」  耕造が新聞を開くと、その記事は真っ先に目に飛び込んで来た。 「おやおや!」 「どうなさったんですの?」 「暴力を振う息子を、親が撲《なぐ》り殺したんだとさ」 「まあ、いやな事件ですわね」 「全く。こういう家庭が後を絶たないんだから──」  記事の中身を読み進んだ耕造は言葉を切った。一体何だ、この記事は? こんな……こんな馬鹿な話があるか! 「嘘《うそ》だ!……嘘だ!」 「どうなさったんですの、あなた?」 「あの家だ……。篠塚という……わしが殺してやった男の家だ!」 「まあ。でも、もう一人の息子さんはとてもいい方だと──」 「そうじゃなかったんだ! 両親に暴力を振っていたのは、エリートの長男の方だったんだ!  『いつも兄をいさめていた弟の裕二さんが、今月初め事故死したため、我が物顔に暴力を振うようになり、たまりかねた父親が……』なんてことだ!」  耕造は新聞を取り落とした。 「わしは……わしは……あの一家を……」 「あなた、落ち着いて下さい」 「落ち着いていられるか!」  耕造の目の中で活字が躍った。 〈抑圧されたエリートの悲劇〉 〈残忍な性格に拍車をかける〉 〈驚く近所の人々 〉。  耕造は、突然、胸に鋭い痛みを覚えてうずくまった。 「あなた、どうしたんですの?」 「胸が……苦しい……胸が……」 「あなた! しっかりして下さい! あなた!……あなた!……あなた……」  耕造は妙子の声が次第に遠去かって行くのを、薄れ行く意識の中で感じていた。 「人間てのは分らないもんだね」  喫茶店の店主は、なじみの客へコーヒーを淹《い》れながら新聞を手にして言った。 「この前は向いの篠塚さんとこのあの事件でしょう。今日はほれ、新聞に出てる〈また老人、孤独な死〉ってね。その人、何度かこの店に来たことあるんですよ。なかなかしっかりした人でね。気の毒ですねえ、心臓発作で死んでいるのを半月も誰《だれ》も気付かなかったっていうんだから。新聞があんまりたまってるんで、近所の人が変だと思ったそうで。──奥さんとは三年前に死に別れ、三人の子供たちも、あまり訪ねて来なかった、って。寂しいね、全く。長男も次男も仕事が忙しくて寄りつかない。娘はどこぞの男と駈《か》け落ちして行方不明だそうで。──確かあの人、次男が大学教授だなんて言ってたけど、きっと見栄をはってたんだなあ。──やり切れないでしょうねえ、退屈な毎日で。一日中、家の中に一人でいて、出がらしのお茶をすすりながら、奥さんの写真と話をしていたんだそうですよ。こうはなりたくないですねえ……」  店主はコーヒーを客のテーブルへ運んだ。 「──いかがです、お味は?」 「旨《うま》いね」  客は満足気に肯《うなず》いて言った。 「いや、同じコーヒーなのに、君が淹《い》れるとどうしてこう旨いのかなあ」 さよならをもう一度 1  その女は、柱のかげに立っていた。  もう、信者はみんな帰ってしまったものと思っていたので、神父はちょっとびっくりした。 「どうしました」  と声をかけて、すぐに、「気分でも悪いのですか」  と付け加えたのは、その女の顔がいやに青ざめて見えたからである。  しかし、青ざめているのは、単にこの教会の中が寒いせいなのかもしれない。何といっても、この石造りの天井の高い建物は、暖めるのに最も手間のかかる構造になっている。  女はまだ若い。たぶん、二十四、五というところだったろう。コートの前をかき合せるようにしてえりを立て、柱にもたれて立っていた。  見たことのない女だ、と神父は思った。  まだ三十代で、以前教師だった神父は、人の顔を憶《おぼ》えることに自信がある。いつもこの教会にやって来ている信者なら、憶えているはずだ。それに──心の中で、小さい声で付け加えたのだが──こんな美人なら、忘れるわけがない。 「神父様」  と、女は言った。「──こうお呼びしていいんでしょうか。よく……分らないんです」 「構いませんよ」  と、神父は言った。「何かお話でも?」  女はためらった。──充分に考えて、決心してやって来ても、いざとなると逃げ出したくなる。そんな人は珍しくない。 「もう……閉める時間なんでしょう」  と、女は断られることを期待しているように言った。  神父はちょっと笑って、 「デパートや銀行じゃありませんからね。時間が来ても、そうピタッと閉店にはしません」  女が、少し緊張のほぐれた様子で笑顔を見せると、 「あんまりデパートへ行かれないんですね」  と言った。「デパートは、閉店時間過ぎてもしばらくはみんな働いていますわ」 「そうですか。ではここもデパート並み、ということにしましょう」  女はまた真顔になって目を伏せると、 「懺《ざん》悔《げ》したいのです」  と言った。 「懺悔を?」  と言って、「しかし──。あなたは信者ですか?」  女は、少し気後れした様子で、 「いいえ」 「懺悔は信者の方でないと──」 「お願いです」  と、遮って、「相談するにも、神父様しかいないのです。他の人に話しても、仕方のないことなんです」  女の口調には、どこか切羽詰ったものが感じられて、神父は迷った。  こういう立場にいると、色んな人間と出会う。  自分はキリストだと思い込んでいる人間もいるし、勝手に何十人もの人を殺したと信じ込んで告白する者もいる。──この男のときには神父もさすがにゾッとしたが、男が「ナポレオンも、ナイチンゲールも俺が殺したんだ」と泣き出すのを聞いてホッとしたものである。  だがこの女は、見たところおかしい風ではなかった。疲れて、やややつれてはいるが、目には知性の光が消えずに残っていた。 「いいでしょう」  と、神父は肯《うなず》いた。「ただ、お話をうかがって、助言してさし上げることはできるかもしれないが、赦《ゆる》しを与えることはできません」 「ええ、もちろん結構です」  と、女は安《あん》堵《ど》の表情を見せて、「聞いて下されば……。そこの──懺《ざん》悔《げ》する所でなくてもいいんですけど」 「いや、一応そこへ入りましょう。あなたは向う側へ。──そうです」  狭い空間。閉ざされた懺悔室の中へ入ると、人は安心する。自分が神と二人きりになれた、という気持になるのだ。  その点は神父も同じことだった。それに──以前、やはり若い女の「相談」にのってやろうとして奥の部屋へ入れ、危うく襲われかけたことがある。女が服を脱いで迫って来たのだ。  あわてて逃れたが、下手をすればスキャンダルになるところだった。  だから、ここの方がその点でも安全なのだ。  仕切りの戸を開けると、小さな窓の向うに、女のほの白い横顔が見えた。 「どうぞ。話して下さい」  と、神父は言った。「私が黙っていても気にせずに。眠っているわけではありませんから」 「ええ」  と、女は小さく肯《うなず》くと、言った。「どこからお話ししたらいいのか……。できるだけ長くならないようにいたします」  神父は黙って頬《ほお》に指をあて、軽く目を閉じた。──こっちが黙っていると、相手は話さなくては、という気になって、素直にしゃべるのである。 「神父様」  と、女は言った。「私は悪魔に魂を売ったものかどうか、悩んでいます」  神父は当惑した。しかし、女の言う「悪魔に魂を売る」というのは、単に「悪事に加わる」といった意味なのだろうと思った。この女は、ものごとを「文学的」に言うくせがあるのかもしれない。  とりあえず、話を聞こう。 「悪魔に魂を売るというのは感心しませんね」  と、神父はできるだけ気楽な口調で言ってみた。「ともかく、話してみなさい」 「はい……」  女は、ちょっと息をついてから、「私は草《くさ》間《ま》江《え》利《り》子《こ》といいます。丸の内の、ごく普通のOLをもう五年間続けていて──今、二十七歳です。同じ社内に、恋人がいました。いえ、恋人、と呼べたかどうか……。同じ年齢で、同期入社してすぐから付合い始め……。ですからもう五年の付合いです」 「なるほど」 「彼の名は──佐《さ》原《はら》良《りよう》二《じ》といいました」  と、女は言った。「おとなしい、本当に生《き》真面目《まじめ》な人で、社内でも人気があるというより、からかいの対象になっているような人でした。それでも、少しも気を悪くするでもありません。ただ、私には時々グチをこぼすことがありましたけど。あの晩……」 「ねえ」  と、佐原良二は言った。「──ねえ、草間さん」 「二人きりよ」  夜の公園。──二人してブランコに腰をおろし、軽く揺ったりしているという、TVドラマの一場面のような状況だった。 「二人きりだね」  と、良二は肯《うなず》いた。 「二人のときは『江利子さん』って呼ぶ約束だったでしょ」 「あ、そうか。ごめん」  江利子も、この夜は少し苛《いら》立《だ》っていた。いつもなら、いちいちそんなことを言いはしないのである。  ちょっとした宴会があった。そして、もともとアルコールに関しては至って弱い佐原良二は、すっかり酔っ払ってしまったのである。  それを責めては可哀《かわい》そうというもので、良二はどうしても周囲に気をつかい過ぎて、つい飲み過ぎてしまうのだ。江利子にもそれはよく分っている。  しかし、入社したての女の子に笑われている良二を見ると、いささか情ない気分にもなってしまうのだった。  そして、やっと帰り道、二人きりにはなったものの……。 「江利子さん……。僕、ちょっと酔ってた?」 「ちょっとじゃないわ。見っともない! だめなんだから、って断ればいいでしょうが」 「ごめん……」  と、良二はしょげている。「何だか──断ると課長に悪くてさ」  課長も気の弱い人で、若い子からはさっぱり相手にされない。だから良二の所についつい腰を据えてしまうのである。 「同じことを何度もくり返さないで。──そういう人って嫌いよ」  つい、はっきり言ってしまう。 「ごめん」  と、良二は謝った。「ね、草──江利子さん」 「何よ」 「明後日……うちの両親が出て来るんだ、東京に」  江利子は良二を見た。良二の方は、不安そうに目を伏せている。 「──それで?」  言いたいことは分っていたが、ついきつい口調になった。「だから何なの?」 「だから……」  と、良二は言いかけて、「──いや、それだけさ」 「そう」  江利子は息をついて、「じゃ、帰りましょうか」 「うん……」  夜も遅くなって、大分冷え込んで来ていた。 「明日、外からね」  と歩きながら言う。 「ああ、そうか。──忘れてた」 「少しゆっくり寝てられるからって、寝坊しちゃだめよ」 「うん」  良二は、江利子が心配してくれるのが嬉《うれ》しそうだった。  営業マンである良二は、明日直接お得意先へ立ち寄ってからの出社になる。江利子はいつも良二の予定を頭に入れていた。  だって──江利子は良二のことが好きだったのだから。まあ、「夢中」と言っていいくらいに愛していたのである。  それでも、持ち前の負けん気の強さが、つい良二に対してきついことを言わせてしまう。ただ、それは「この人には何を言っても大丈夫」という気持が、江利子の中にあったせいだろう。  そう。──江利子は良二と結婚するつもりだった。彼を一目見たときから。良二は気が弱くて、正式にプロポーズしてくれてはいなかったが、二人の間では何となく暗黙の了解になっていて……。  だから、良二が両親に江利子を紹介したいというのは、いわば「遠回しのプロポーズ」だったのである。  でも──せめて、きちんとプロポーズくらいしてほしかった。断る気なら、とっくの昔に振ってるわよ、と──出かかった言葉をついのみ込んで、この夜は別れることになった……。  そして──翌日。 「江利子さん、電話」  と、朝のあわただしいオフィスの騒音を縫って、同期で机を並べている加《か》藤《とう》奈《な》美《み》が大声で言った。 「はあい」  江利子は必死で電卓を叩《たた》いているところだった。「──誰?」 「彼氏」 「え?」  良二か。──江利子はほとんど「引っつかむ」という感じで受話器を取った。 「もしもし?」 「あ、僕だよ」 「どうしたの? ちゃんと起きられた?」 「うん。今、出先で……。ね、江利子さん」 「何? ね、忙しいの。用件あったら、早く言って」 「うん……。あの──ゆうべ言ったことなんだけど。両親が明後日出てくるって」 「ああ。──明日でしょ、昨日『明後日』って言ったんだから」 「あ、そうか。そうだね、うん」 「だから何なの?」 「あの──君に──会ってほしいんだ。君を紹介して……。いいだろ?」 「あのね」  と、ため息をついた。「こんなときに言わないでよ。朝は忙しいの、分ってるでしょ。本当に──もう切るわよ」 「待ってくれ!」  と、良二はあわてて言った。「江利子さん、君を僕の婚約者だって両親に紹介したいんだ。いいだろ?」  江利子は、ちょっとの間黙った。──やっと! やっとね。しかも、こんな忙しいときに。  でも、嬉《うれ》しかった。ただ、こんな所で「喜んでお受けします」なんて言えやしない。ふっと「いたずら心」が起った。 「そのことなら、後で話そうと思ってたことがあるの。お昼休みに、二人だけで話しましょ」  と、わざと素気ない口調で言った。 「あ……そう」  と、良二は不安そうに言った。「分った。お昼だね」 「そう。じゃ、後でね」 「うん──」  電話を切ると、加藤奈美が苦笑いしながら江利子を眺めている。 「何よ」 「江利子、少しきつく当りすぎじゃない? 佐原さん、気が弱いのに」 「構やしないわよ」  と、江利子は電卓を叩きながら、飛び上って喜ぶ良二の顔を想像して、つい微笑《ほほえ》んでしまうのだった……。  しかし──妙なことに、良二はお昼休みになっても戻って来なかった。  どうしたんだろう? 江利子は、十二時を十五分過ぎても良二が出社して来ないので、苛《いら》々《いら》していた。  江利子はお昼をいつも外で食べる。今日は良二と二人で、と思って楽しみにしていたのである。その席で、きちんと言おう。 「あなたのこと、ずっと好きだったのよ」  と……。  ところが、良二はどこで手間どっているのか、外回りから戻らない。 「電話の一本ぐらい入れりゃいいのに」  と、江利子は口に出して言った。  トントンと指先で机を叩《たた》きつつ、良二の来るのを待った。──十二時半。  お腹も空いて来るし、江利子は良二が来たら一発ひっぱたいてやろうか、とさえ思っていた。 「──あら、江利子。何してんの?」  と、奈美がもう昼食を終えて帰って来た。 「何もしてない」  と、むくれているのを見て、 「佐原さん、待ってんの? しようがないわよ。営業マンなんて、誰かお客に誘われたら断れないんだし」  分っている。でも──今日は特別な日ではないか。良二だって、それを分っているくせに。──あの馬鹿!  電話がかかって、奈美が出た。 「はい、〈P事務機〉です。──は?──はい、うちの社員ですが……」  奈美の声も、江利子の耳の外側をなでて通って行くばかりだった。聞こえていても、意味は分っていない。 「──江利子」  と呼ばれて振り向く。  奈美が、何だか途方にくれた様子で江利子を見ていた。 「──どうしたの?」 「今……警察から電話で」 「警察?」 「ね、江利子……。しっかりして! 佐原さんが車に……。車にはねられたって」  江利子は、ちょっと間を置いて、 「嘘でしょ」  と笑った。「そんな……。ドジだからな。やりかねないか! それで遅れてるのね。けが、ひどいの?」  奈美が、ポツリと呟《つぶや》くように、 「死んだって」  と言った。 2 「それは気の毒な」  と、神父は言った。「それで自分を責めておられるんですね? しかし、彼が事故で亡くなったのは、あなたのせいではない。自分を責めてはいけません」 「それは分っています。よく、分っているんです」  と、女は言った。「もちろん、彼を失ったことは、とても悲しくて、ショックでした。何日も泣きました。──上京して来た彼のご両親も、私のことを少し彼から聞かされていたらしく、私同様、大変な嘆きようでしたが、それでも私にやさしくして下さいました……」 「それは救いでしたね」 「ええ」  と、女は小さく肯《うなず》いた。「私は……決して自分が冷たい人間だとは思っていません。人並みに恋する心もあり、恋人の死を悼む気持もあります。でも一方で──私は生きています」  少し、女の声は張りを帯びた。 「どんな悲しみや嘆きも、時がたてばやがて過去の一ページになって行くのです。それは当然のことだと思います。けれども──」  女は、首を小さく振って、「それとは別のものが、私を苦しめているのです。時の流れも、それだけはいやすことができません」 「それは何のことですか?」  と、神父は訊《き》いた。 「彼に──言わなかったことです。『愛してる』という一言を、言わなかったことです」  一気に言って、女は両手で顔を覆った。 「江利子……」  奈美に肩を叩かれて、江利子は顔を上げた。 「うん?」 「もう帰ろう。ここも閉《しま》るよ」  二人でバーをもう三軒も、はしごしていた。 「もっと飲む」  と、カウンターに肘《ひじ》をついて、江利子はグラスをあけようとして、空になっているのに気付いた。 「体こわすよ」  と、奈美がため息をついて、「佐原さんが亡くなって、ショックなのは分るけど……。自分で体を悪くしたって、佐原さんは戻らないのよ」  分っている。江利子はそう酔っているわけではない。アルコール分は、江利子の頭の方を避けて回っているらしかった。  酔えない。どうせそうなのだ。  江利子の中に、取り返しのつかない自分の言葉への後悔が、いつまでも残っている。それはアルコールぐらいで拭き取れるものではないのだ。  なぜ──なぜ、良二に言ってあげなかったのか。 「あなたが好きよ」  というたった一言を。  それどころか、実際には何を言ったのか。わざと素気なく、 「そのことで話そうと思ってたの」  と……。  あれを聞いて、良二はどう思っただろう?  もともと、江利子にそれほど好かれていると自信を持ってはいなかった良二である。江利子の言い方に、てっきり「別れよう」と言われるのだと思ったかも……。  本当のところは分らない。しかし、良二が少なくとも江利子の愛を信じて死んで行ったのでないことは確かである。 「もう帰る、私」  と、奈美はいささか呆《あき》れた様子で、「まだ飲むつもりなら、お一人でどうぞ」  付合いきれないよ、という口調だった。 「うん。──じゃ、さよなら」  と、江利子は言った。  奈美は、少し気がかりな様子ではあったが、自分の分の払いをすませて帰って行った。  これでいい。江利子は一人になりたかったのだ。一人になって、思い切り自分を責めてみたかったのである。  良二さん! 良二さん。もう一度、せめて一言、私が言う間だけでも戻って来て!  そうでないと、私は一生この重荷を負って生きなくてはならなくなる……。 「──もう一杯」  と、江利子が注文すると、誰かが隣の椅《い》子《す》に座って、 「僕のおごりだ」  と言った。 「──結構よ。年下の人におごってもらうほど落ちぶれてないわ」  どう見ても二十二、三歳の色白な青年を見て、江利子は言った。  なかなか端正な顔立ちをしている。少しはにかみ屋らしいところは良二とも似ていた。しかし、良二はこんなにハンサムじゃなかった……。 「若く見えますけど、そう若くもないんですよ」  と、青年は微笑《ほほえ》むと、「あなたのお力になりたくて」 「それって、デートの誘い? タイミングが悪いわよ。今、恋人を亡くしたばっかりなんだから」  新しいグラスを傾ける。 「分ってます」  と、青年は言った。 「分ってる、って……。何が?」 「あなたの望んでいること。悩み、苦しんでいるあなたを見るに忍びないんです。あなたの願いを叶《かな》えてあげたい」  淡々とした口調。新手のナンパかね、これ? 「じゃ、私が何を願ってるか、言ってみなさいよ」  と、江利子は挑むように言った。 「亡くなった恋人に、一言だけ言いたいことがある。そうでしょ?」  ──一気に酔いは覚めてしまった。  じっと見つめると、青年は、 「そう見つめないで下さい。照れますよ」  と目をそらした。 「どうして……。どうしてそんなことを言うの?」 「『愛していた』と一言。──それで彼もめでたく天国行きってわけだ。何しろ今のままじゃ、恋人を信じなかったというんで、地獄へも行きかねませんからね」  江利子は青年から少し離れるようにして、 「あなたは……誰?」  と訊いた。  青年はいたずらっぽい笑みを浮かべて、 「あなたに一晩だけ、恋人を返してあげられる者ですよ」  と言ったのである。 「何ですって? つまり──」  と、神父は言いかけてためらった。 「バーを出て、その人は言いました。『僕は悪魔です』と」  神父は、ちょっと間を置いてから、笑ってしまった。急いで咳《せき》払《ばら》いして、 「失礼。いや──あなたのお気持は分らないことはありません。決して笑ったというわけでなく……」 「いえ、当然です」  と、女は言った。「私も相手にしませんでした、そのときは。──もちろん、その男がどうして私の考えていることを知ったのか、不思議ではありましたけど、私のことを何とかして調べていれば、推察できないものでもないでしょう」 「そう。そうですよ。大体、悪魔が二枚目だというのは、よく安っぽいホラー映画にはありますが……」  神父は、実はホラー映画が大好きなのである。まあたいていの場合、「神」が勝っておしまいというのは、少々興冷めだったが。 「ですから、その晩はさっさと帰って寝てしまったんです。でも……」  と、女はためらって、「次の日になってみると……。何だかその男のことを、いやにはっきり憶《おぼ》えているんです」 「その──悪魔と名のった男のことを、ですか」 「そうです。一晩だけ、彼を返してくれる。もしそれが本当なら──」 「まさか、そんなことが!」 「いえ、分っています。私だって、今の世の中で常識的に生きて来た人間ですから。そんなこと、できるわけがないということも知っています。でも……できないのなら、それでいいわけでしょう? 別にあの男がそうすると約束してくれて、私が代りに何を払うと言ったところで、どうせ彼が帰って来ないのなら、約束なんかしなかったのと同じです」 「それはそうですが──」  と、神父は言い淀《よど》んだ。「ただ──その悪魔は、あなたに魂をよこせと要求したんですね?」 「はい」 「そういう約束を、たとえ本心からでなかったとしても、軽々しくするものではありません」 「もちろんです。私にも分っています」  と、女は肯《うなず》いて、「でも──それなら神様にお願いしたら、彼を一晩返してくれますか?」 「何ですって?」 「悪魔ならやってくれても、神様はやって下さらない。そうでしょう?」 「それは死を冒《ぼう》涜《とく》するものです」  と、神父は言った。 「そうでしょうか。私──彼に生き返ってほしいなんて思ってはいません。お分りですか? 死は死です。ただ、一言言う間だけ、彼にそこにいてほしいんです。もし神様がそれを叶《かな》えて下さったら、私は喜んで信仰の生活に入ります」  神父はため息をついた。──もちろん、この女の言葉を、聖書の言葉とかを引いて正すことはできる。  だが、そんなことはこの女にとって何の意味もないのだ。  神父には、女の心情も理解できた。 「そういうお役には立てませんね」  と、神父は言った。「しかし、その男がどうして『悪魔』と名のっているのかは分りませんが、あなたにとって、いい結果をもたらしはしないことがはっきりしているのですから、やはりそんな取引きは拒むべきです」 「はい……」  女は顔を伏せた。 「で──その男は、また現れたんですか?」  と神父が訊《き》く。 「はい。その三日後でした」  と、女は言った。「私は彼の事故死した交差点へ、花束を持って行って、置きました……」  しなびた小さな花が、埃《ほこり》にまみれていた。  ほんの何日かで、こうなる。──人間の死というのは、すぐに忘れられるものなのだ、と江利子は思った。  今日、その人の死に泣いても、明日は笑ってその死のことを人と話せる。冷たい、というのではなく、人間はそうでなくては生きて行けないものなのだ。  そう。──私も、良二さん、あなたのことを忘れて笑っていることはできる。でも、ほんのいたずら心から、あなたを不安の内に死なせたこと──それを忘れることはできないだろう。  ここで……ここで良二は死んだのだ。車にはねられて。  たぶん、彼自身もボーッとしていたらしい。信号の変わりかけた横断歩道を足早に渡ろうとして……。  その車は、ほとんどスピードを落とさないまま良二をはね、更に良二は反対側から来たトラックの前に投げ出されて──。  江利子は、告別式でも良二の顔を見ることはできなかった。トラックに頭をひかれ、とても見られる状態ではなかったという。  もし、彼の顔が見られたら……。その死顔を見て、少しは安《あん》堵《ど》することも(逆に自責の思いにかられたかもしれないが)できたろうが──。 「良二さん」  と、花束を置いて手を合せた。  すると──誰かがそばに立つ気配があって、顔を上げると、 「どうです? 決心はつきませんか」  あの「悪魔」が立っていたのである。  江利子は、ちょっと花束の方へ目をやると、 「──本当に、良二さんに会えるんですか?」  と訊いた。 「本当ですとも」  と、「悪魔」は肯《うなず》いて、「もちろん、それなりの支払いはしていただきますが」 「魂を売れということですね」 「そう。──なに、大したことじゃありません。死んでからの話で、何十年も先だ。生きている間はあなたのもの。別に他の人と何ら変ったことはありませんよ」 「死んでから?──死んでからどうなるの?」 「それを申し上げるわけにはいきませんし、分っても、どういうことか理解はできませんよ、人間には」 「そう……」  江利子は少し考えて、「いつ、彼に会えるの?」  と訊いた。 3  神父は、夜道を歩いていた。  ──夜、出歩くのは珍しいことだった。  朝の目覚めが早いせいもあるが、もともと、そう遊びに出るたちではない。  もっと若いころには──それこそアルコールにも強かったし、ほとんど眠らずに朝の礼拝に出て、居眠りして叱《しか》られたりもしたものだ。  しかし、もう若くはない。無茶をして自分をいためつけることが楽しかったのは、遠い昔のことである。  時々、細かい雨が降っては止んでいた。肌寒く、底冷えのする夜だ。  神父は、本当ならこんな日にはワインの一杯でも飲んで、TVのサッカー中継でも見ているのだったが……。  あの女の話が、どうにも気にかかって仕方なかったのである。  馬鹿げた妄想と片付けるのは簡単だが、女はどう見ても本気だった。少なくとも、死んだ恋人に対して、一言だけ自分の気持を話しておきたいという、その思いは切実だった。  それにつけ込んで、「悪魔」だなどと名のったけしからん奴がいたとして……。あの女がもし本当にそいつの言うことを信じたら、どうなるか。  神父は結局何も言えなかった。「奇跡」を起すことなど、自分にはできないし、またあの女を慰めてやることさえ、ままならない。  女は、 「話を聞いていただけただけでも……」  と礼を言って帰って行ったが、神父は女を慰めることさえできなかったのである。  それはもちろん正しいことだ。神の名において、いい加減な慰めの言葉をかけるわけにはいかない。  神父は、「もうすんだことだ」と自分に言って聞かせて、忘れようとした。しかし、結局、こうして夜の中を出て来てしまったのである。  女が話していたことを、どうしても忘れられなかったから。 「──悪魔は言ってくれました。今夜十二時に、彼の死んだ場所へ来れば、彼に会わせてやると……」  十二時。──神父には、女の話で大体場所の見当がついていた。十二時には間がある。充分に間に合う──はずだった。  だが、現実にはそううまく行かなかったのである。  場所がおおよそ分っていたとしても、夜の暗い中では、道も間違えやすく、訊く人もいない。  大分迷って歩き回った末、やっとその交差点へ出たときは、もう十二時を十五分ほど回ってしまっていた。  神父は息を弾ませ、人気の絶えた交差点を見回した。  車が時折通るが、それ以外、動くものの姿とてない。  あの女は……来るのをやめたのだろうか?  それならそれでいいのだが。  少しホッとしかけたとき、神父は走り抜ける車のライトが、一瞬道端に座っている女を照らし出すのを見た。  いたのか。──やはり。  重苦しい気持で、神父は今さら引き返すこともならず、その場へと歩み寄った。  女は、歩道の奥の植込みのへりに腰をおろして、顔を伏せていた。  神父はそばへ行って足を止めると、 「──大丈夫ですか?」  と声をかけた。  女がゆっくりと顔を上げたが、街灯の光も届かないので、女の表情は分らない。 「神父様ですか」 「そうです。あなたのことが心配になって」 「──ありがとうございます」  女の声は沈み切っていた。 「彼は現れなかったのですね。しかし、それで良かったのです。あなたは生きているのですから」 「いいえ」  と女は首を振った。 「いいえ、というのは?」 「彼はやって来ました」  と、女は言った。 「何ですって?」 「彼はやって来ました。本当です。──十二時ちょうどに」  と、女は、今は車のいない通りへ目をやった。  来るわけがない。  江利子は正直、そう思っていた。──それならばここへ来なければいいようなものだが、ここへ来ることが、いくらかでも良二への罪滅ぼしになるような、そんな気がしていたのである。  十二時になって、何事も起らないのを知ると、江利子はそっと立ち去ろうとした。  とんでもない「いかさま」だったんだわ。──あんな頼りない「悪魔」がいるわけない。  あんな奴に騙《だま》されて、ノコノコやって来るなんて……。  江利子は交差点に背を向けて歩き出した。──すると、急に後ろが騒がしくなったのである。人のざわめき、車の音、クラクション、ブレーキ。  びっくりして振り向いた江利子は、相変らず何もない交差点を見て唖《あ》然《ぜん》とした。人も車もない。それなのに、人のざわめきや足音が、車の通る音や地響きすらも、感じられる。  何だろう、これは?  立ちすくんでいると、突然激しいブレーキの音が響き、叫び声が上った。そしてクラクション、ブレーキ。あちこちで、 「どうした!」 「はねられた!」  という声がする。  江利子は、空っぽの交差点の方へと、引き寄せられるように近付いて行った。 「救急車だ!」  と怒鳴る声。 「──もう無理だよ」  と誰かの言うのがすぐそばで聞こえ、江利子はギクリとした。  振り向いても、そこには誰もいない。声だけが聞こえていたのである。 「車にはねられて、トラックがそこへ……。ひどいよ、ありゃ」  と、男の声が言った。 「怖いけど、見たいわ」  と言う女の声が、江利子の神経を逆なでした。  これは……あの瞬間なのか?  良二が死んだ瞬間が、戻って来たのだろうか?  幻聴にしては、あまりにはっきりしていた。  そして何もない交差点には、車のエンジンの音が重なって響き合っていたのである。  こんなことってあるだろうか?  何か、とんでもないことが起りそうな予感に、江利子は怯《おび》えた。足が震える。  そして──不意に、辺りは静まり返った。突然、スイッチを切ったラジオのように、一気に静寂が戻って来た。  江利子は周囲を見回したが、人影も、車も何も見えない。  そして──通りへ目を戻したとき、そこに誰かが倒れていた。  夜の中で、それはうずくまった一つの黒い影にすぎない。人であることが分るだけで、何も見分けられない。  でも──あそこは、良二が倒れていた辺りだろう。  江利子は、激しく高鳴る自分の心臓の音で耳を一杯にされていた。じっと目をこらして見る内、それが男性らしいこと、そして背広姿で江利子の方へ背を向ける格好で倒れていることに気付いた。  あの背広!──そう、あれは良二のだ。  では──では、本当に戻って来たのだろうか? 本当に?  江利子は、チラッと左右へ目をやって、ゆっくりと車道へ足を下ろした。  近付いて行く間も、それが良二に違いないことがはっきりしてくる。  こんなことがあるなんて!  数メートルの所まで近寄って、江利子は足を止めた。  良二が、少し動いたのである。錯覚ではない。確かに、わずかだが、動いた。  息をつめて見守る内、良二はジリジリと腕を折って、体を支えながら、ゆっくりと頭を上げ、体を起し始めた。 「良二さん……」  涙が溢《あふ》れて来た。  ほんの一瞬でもいい。私の声を聞いてくれたら。私があなたをどんなに愛していたかを聞いてくれたら……。  良二は、今にも倒れそうな弱々しさで、しかし何とか膝《ひざ》で体を支えると、よろけながら立ち上った。  良二は、江利子の方に背中を向けていた。自分がどうしてこんな所にいるのかと戸惑っている様子だ。 「良二さん! 私よ」  江利子は、呼びかけた。「──良二さん」  手を伸ばすと、江利子は良二の、少し裂けた上着の腕をつかんだ。  良二が振り向いた。  神父は、信じられない思いで、女の話を聞いていた。  信じてはいなかった。いや、信じていないと思っていたが、同時に女の話を受けいれていた。 「それで……」  神父は自分のかすれた声を聞いた。「彼に言えたのですか」  女は、立ち上った。神父はギクリとした。 「──言いませんでした」  と、女は言った。 「なぜですか」 「言ってもむだでした」  女は、嘆きを込めた声で、「彼には聞くことができなかったのです。車にはねられ、トラックに頭をひき潰《つぶ》され、彼にはもう何一つ見ることも、聞くこともできなくなっていたのです」  神父は愕《がく》然《ぜん》とした。 「では──」 「まんまと騙《だま》されたのです」  と、女は苦々しく言った。「確かに彼は戻って来た。でも、彼には私のお別れの言葉も聞くことができず、私の最後のキスも受けられなかった。──彼の口さえ、まともな形では残っていなかったからです」  女は、車道の方へ向って数歩進み出ると、言った。 「振り向いた彼を見て、私は総毛立つ思いでした。そこに立っていたのは、体は人間でも、頭は……もう人でも何でもない、壊れ、砕けた、骨と肉と血の塊だったのです。その手が……私の方へ伸びて来て、私は悲鳴を上げました──」  女は目を閉じて苦しげに息をした。 「──落ちついて」  と、神父は言った。「あなたは迷っていた。けれども、悪魔が本当のことを言うはずがないということを、悟ったのです。──今はもう、彼の死を忘れて、生きることだけを考えなさい。強く生きるのです。悪魔との約束など、やがて効力を失ってしまいますよ」  女は神父の方へ向くと、 「あなたはやさしい方ですね……」  と言った。「ありがとう。でも──忘れることはできません」 「忘れるのです。それしかない」  と、神父は強い口調で言った。 「でも──できませんわ。そこに彼がいるのですもの」  女が神父の肩越しに植込みの方へ目をやった。振り向いた神父は、植込みからぎこちない足どりで、宙を手探りしながら出てくる男と相対した。  その男の頭は──かつて頭だったもの、いやそれすらはっきりとは言い切れないほどに、潰《つぶ》されていた。  神父は、その男の手がゆっくりと自分の方へ伸びてくるのを見て、 「やめてくれ!」  と叫んで後ずさった。「近寄るな!」  車道へ踏み込んで、神父はよろけた。  強烈なライトが神父の目を射る。クラクションの叫びと急ブレーキの音。  それが、神父の聞いた最後の音になった。  江利子は、トラックの運転手があわてふためいて電話を捜しに駆けて行くのを見送っていた。  神父の体はトラックの下へ巻き込まれ、かがみ込んで覗《のぞ》くと、投げ出された足が、大きなタイヤの間に見えた。 「──事故かい?」  と、声がした。  江利子は振り向いた。  良二が、半ば放心したような表情で立っている。いつも通りの良二が。 「そうよ」  と、江利子は言った。「頭を潰されたみたいね。もう死んでしまっているわ」 「可哀《かわい》そうに」  良二はそう言って、「僕も……頭が痛いけどね、少し。──どうしたんだろう? 何だか……何も憶《おぼ》えてない」 「もういいのよ」  江利子は良二を抱いた。「終ってしまったことは、もう考えなくても」 「江利子……」 「あなたを愛してるの。あなたに夢中なのよ!」  良二は、信じられない、という表情になった。 「本当に? 僕はてっきり……君に『さよなら』を言われるんだと思ってた」 「いいえ」  江利子はしっかりと良二を抱きしめて、「もう──もう二度と言わないわ。今度言うときは──」  江利子は、少し離れた木のかげから顔を覗《のぞ》かせている、あの青年と目を合せた。 「悪魔」は微笑《ほほえ》んで手を振った。  分ってる。分ってるわ。  私はこの人を手に入れた。あのやさしい神父を身代りにして。  私は、いつかあなたと永遠に別れる日が来たら、あいつに魂を持って行かれる。  でも、今のあなたは、私の魂を犠牲にするほどの値打のある人なの。たとえ、悪魔の企みで明日私が死んだとしても、私は悔やまない。  魂を売って、あなたとの時間を買い取ったのだ。 「今度あなたに『さよなら』を言うときはね」  と、江利子は言った。「あなたが私を見送ってくれるのよ」 「馬鹿言うなよ」  と、良二は怒ったように言った。「君はこんなに元気じゃないか」 「ええ……。そうね」  江利子は良二にぴったりと身を寄せて歩き出した。 「もう離さないよ」  と、良二が言った。 「ええ」  と肯《うなず》きつつ、江利子は聞いていた。  自分の背後にぴったりとついて来る足音を。  遠からずそれは自分に追いつくだろう。  ──江利子には分っていた。  初出一覧 旧 友 光文社文庫「行き止まりの殺意」 '88年4月 いなかった男の遺産 「小説宝石」 '90年12月号 駐車場から愛をこめて 講談社文庫「真夜中のための組曲」 '83年8月 怪 物 「野性時代」 '92年2月号 善の研究 集英社文庫「駈け落ちは死体とともに」 '83年6月 さよならをもう一度 書下し 自選恐怖小説集 さよならをもう一《いち》度《ど》  赤《あか》川《がわ》次《じ》郎《ろう》 ------------------------------------------------------------------------------- 平成13年6月8日 発行 発行者  角川歴彦 発行所  株式会社 角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp Jiro AKAGAWA 2001 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『自選恐怖小説集 さよならをもう一度』平成6年4月10日初版発行 平成10年9月10日13版発行